多くの仏教宗派においては、坐禅がそれ以外の行と組み合わせられたり、同時に修されることが行われていました。

しかし、只管打坐というのは坐禅の際にそれ以外のことを行ったり考えたりすることを否定するものです。

したがって只管、つまり「ひたすら」といっても、それは何らかの目的・目標のために一生懸命がんばる、という意味でのひたすらではありません。

只管打坐とは、何かを得たり、悟ったりすることを期待したり目標としたりすることのない坐禅ということです。

これが只管打坐、ひたすら坐禅する、という言葉で道元の言わんとしたことです。