厚の一日は、2ちゃんねるのチェックから始まる。
妻の孝子がお茶を持ってきた。

 「厚さん、今日はどう?」

どう?と言われても、ほとんど毎日、答えは同じだよ。

 「今日も僕の話題で盛り上がってたよ。みんな好き勝手言ってるね。相変わらずだなぁ」

盛り上がるわけがない。そもそもスレッドさえ無い有様である。
しかし、ささいな嘘だけど、そんな嘘をついてあげると、孝子はとても喜ぶのだ。

 「あなたはいつも人気者ね。本当に結婚してよかったわ」

孝子は僕の右頬にキスをして、そしてよくわからない鼻歌をふんふんと歌いながら
玄関の方に向かい、やがてドアを開ける音が鼻歌に重なった。

 「あ、そうだ孝子、タッチの散歩、いいかな?」

僕はあわてて振り向き、にっこり微笑みながら頼んでみた。

こんな事を書くとレース以外の日は、ゴロゴロしてて、ただの無精者だろうと勘違いされそうだから
あんまり書きたくは無いんだけれども、僕は元来とても行動的な人間で、タッチ(愛犬)の朝の散歩は僕の当番なのだ。
タッチがこの家に来てから朝の散歩を孝子に頼んだのは、痔の手術をしたとき以来である。
普段は自分の起床後に真っ先にやる事なんだけれど、今日は伊勢崎の記念競争の前だから
「ひょっとして?」、なんて気持ちがあって、板の隅から隅まで見尽くしてしまったんだ。
それがよくなかった。結局どこにも僕の話題は無かったよ。そしてとても疲れた。
こんな鬱々とした日は、とても外に出る気がしない。

 「はいはーい!散歩オッケーよ!」

孝子は30年前と変わらない笑顔を僕に返してくれた。
かわいいな。それに引き換え僕は何をやってるんだろうか。
先日、自分のスレがいつまで経っても立たないもんだから、自分で立ててしまおうか、
なんて馬鹿な考えが頭をよぎった。でもね、そんなことしたら人間お終いだよ。

 「ねぇねぇあなた?私ね、これからケータイ屋さんに行ってこようかと思って。
  私もついにケータイ持とうかなって。
  だってそうすれば、いつでもあなたの人気者ぶりを見られるでしょ?
  私だってあなたの1万人のファンのうちの一人よ?
  みんなと一緒にあなたの話題で盛り上がりたいのっ!うふふ〜
  じゃぁね。ケータイ契約してくる」


カタカタカタ ポチッ

     【川口の音速】小野尾厚 その112【最前線】

意外に早く、この日が来た。