あの当時は社会人は実業団のみが「ライスボウル」に出場できて、クラブチーム
には出場権がなかった 関東は実業団リーグとクラブチームリーグの二本立て、
関西は混成リーグという変則的な体制だったおかげで、ライスボウル出場チームの
決定方法もややこしかった

81年から「東西社会人王座決定戦」が始まり、これは関東のクラブチーム代表と
関西の代表の間で争われていた 83年度からライスボウルが日本選手権に移行
したのに伴い、社会人側の代表を決めるために始まったのが「全日本実業団王座
決定戦」だったが、これは二回で終わり、その後は関東関西の実業団を合せた
日本実業団リーグが発足(といっても、関西のチームは松下だけだったように
記憶している)、その優勝チームがライスボウルに出場した

87年になってようやく名実ともに社会人代表を決める体制が整う いまの
「ジャパンXボウル」が「社会人選手権」として始まり、ここで初めてクラブ
チームが「ライスボウル」へ出場する機会を与えられた

初期の「ライスボウル」があまり重視されていなかったのはこのような背景に
よるもの