昭和天皇に侍従として仕えた故卜部亮吾氏が、天皇のA級戦犯合祀への思いや闘病生活など
昭和後半の日常生活を側近として書き留めた日記が26日までに見つかった。
天皇が靖国神社参拝を取りやめた経緯について「A級戦犯合祀が御意(天皇の意向)に召さず」と記し、
あらためてA級戦犯合祀に不快感を持っていたことが裏付けられた。

 日記は卜部氏が侍従になった直後の1969年12月から、
宮内庁を離れ、亡くなる直前の2002年2月まで毎日記入していた。

 昭和天皇の最後の記者会見から数日後の1988年4月28日には「お召しがあったので吹上へ
長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」と記述。

 当時の長官は富田朝彦氏。同じ日付の富田氏のメモによると、
昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示したと記載があり、同じ日に相次いで戦犯合祀問題について語っていたことが分かる。
 「奥野発言」は、当時の奥野誠亮国土庁長官が、日本の中国侵略を正当化する発言をし、
中国と韓国の反発を招いたことを指すとみられる。