1943年(昭和18年)12月、20歳の三國は大阪で働いていたが、徴兵検査の通知が来て故郷の伊豆に戻り、
甲種合格後、実家へ戻った。すると「おまえもいろいろ親不孝を重ねたが、これで天子様にご奉公ができる。
とても名誉なことだ」という母の手紙が来た。自分に赤紙(召集令状)が来たことを知った三國は、
「戦争に行きたくない。戦争に行けば殺されるかもしれない。死にたくない。何とか逃げよう」と考え
、同居していた女性とすぐに郷里の静岡とは反対の西へ向かう貨物列車に潜り込んで逃亡を図った。
逃亡四日目に無賃乗車で乗り継いで山口県まで来たとき、母に「ぼくは逃げる。どうしても生きなきゃならんから」と手紙を書いた。
親や弟、妹に迷惑がかかることを詫び、九州から朝鮮を経て中国大陸へ行くことも書きそえた。
数日後、佐賀県の唐津呼子で船の段取りをつけていたところで憲兵に捕まり連れ戻された。
しかし処罰は受けず、皆と同様に赤ダスキを掛けさせられて、静岡の歩兵第34連隊に入れられた。
中国へ出征する前、最後の面会にやってきた母が「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。
涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」と言ったとき、三國は母親が家のために黙って
戦争に行くことを息子に強要し、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したことを知る。
家族が村八分になるのを恐れ涙を呑んでの決断だったという。
中国大陸の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国の土を踏めたのは二、三十人にすぎなかった。