『朝鮮人が地震が起こる九月一日にむけて謀反の計画を立てていたという噂があるから、各自、気をつけろ。君たち記者が回るときにね、あっちこっちで触れて回ってくれ』
との伝言を託されてきたというのである。

そこにたまたま居あわせたのが、台湾の民政長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。
下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、
石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、
下村は言下に、『それはおかしい』といった。

『地震が九月一日に起こるということを、予想していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことにはなりはしない。朝鮮人が、九月一日に地震がくることを予知して、そのときに暴動を起こすことを、たくらむわけがないじゃないか。流言蜚語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』

歴史学者の松尾尊兊が書いた『関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)』という論文(「思想」昭和三十八年九月号所収)に、関東大震災当時、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談が紹介されている。これは昭和三十七年十一月二十一日、森が京大人文科学研究所で講演した内容を筆録したもので、その談話のなかの正力の言動は、完全に常軌を逸している。

このときの森の証言によれば、正力は腕まくりをして戒厳司令部を訪れ、『こうなったらやりましょう』といきまき、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となる阿部信行をして『正力は気がちがったのではないか』といわしめたという。

いずれにせよ正力は、少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している。(中略)

 正力自身も認めるように、朝鮮人暴動の流言は、一部、警察当局自身から流されたものだった。この『幾分権威をもった』流言は、家財産を一瞬にして失い、すさみきった被災地の人心に、砂地に水が沁みこむように、たちまち浸透していった。各地の自警団、在郷軍人会、青年団は、竹槍や鳶口を手に手に取り、朝鮮人とみると警察につきだし、あるいは自ら手を下して虐殺した。

正力の長女の梅子は、逗子の家の庭に敷きつめられた石を、なにかにとりつかれたように磨く晩年の正力の後ろ姿を鮮明におぼえている。それは朝鮮から送られてきた石で、尻っぱしょりした正力は、この石を黒ずませてはいけないと、タワシを持ち出し必死で磨いていたという。

このとき正力の気持ちのなかには、関東大震災下で虐殺された朝鮮人に対する贖罪の思いが、あるいはあったのかもしれない。
この頃から正力の肉体は目に見えて衰弱していった」

http://ssk-journal.com/s/article/169280654.html