X



天才・三島由紀夫
0434名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/13(水) 20:16:39.58ID:1ldJczx5
俳優がその若さの絶頂にゐて、若さの絶頂の役を演じるといふことは、芸術における例外的な恩寵である。


若さは、伝説と反対に、傷つき易い、みじめなものなのである。私自身それをよく知つてゐる。若さの年齢において
若さを演ずることは、スパルタの少年の克己をわがものにすることだ。

三島由紀夫「中山仁君について」より


青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。


精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば若々しさを失ひ、後者に
傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な
結合を成就することがある。

三島由紀夫「青年像」より


青年には、強力な闘志と同時に服従への意志とがあり、その魅力を二つながら兼ねそなへた組織でなければ、
真に青年の心をつかむことはできない。

三島由紀夫「本当の青年の声を(『日本学生新聞』創刊によせて)」より
0435名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/13(水) 20:17:55.46ID:1ldJczx5
感情だけが恋を形づくるが、恋をこはすのもまた、感情だ。それなら形だけの恋、感情を持たない恋の中にだけ、
永遠なものが宿るのではないだらうか?

三島由紀夫「鏡の中の恋」より


小説に美しいはかない抒情が求められる時代は、現実に苦痛が次第に負荷を加へてくる時代である。

三島由紀夫「中河与一全集を祝ふ」より


世の中といふものは面白いもので、非常に偉大で有名な人物に会つてみると、その人物自体はわりに平凡な
印象を与へ、却つてその蔭に、個性の強烈な別の人物がついてゐる、といふことがよくあるものだ。

三島由紀夫「テネシー・ウィリアムズのこと」より


いくらお金を費つても費つても、貧しい気分にしかならないたいへんな時代が、現代といふものである。

三島由紀夫「鳳凰台上鳳凰遊ぶ」より


エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、外に現はれて人の目に
ふれるときエロティックと感じる。

三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性――作家・三島由紀夫の証言」より
0436名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/14(木) 13:34:27.14ID:sX9a73jq
英雄とは、文学ともつとも反対側にしかない概念である。

三島由紀夫「年頭の迷ひ」より


小説家も拳闘家も同じことだが、血湧き肉をどる思ひをさせるのは処女作時代で、一家をなし、追はれる立場に
なれば、さういふ魅力は乏しくなり、代りにいはゆる「円熟した技巧」を見せはじめる。しかし、巧くなつて
不正直になるのは堕落といふもので、巧くなつてもなほ正直といふところが尊いのだ。

三島由紀夫「原田・メデル戦」より


人間は人生の当初に、何もわからず、やみくもに考へたことを基本にして、その思想から一歩も出られずに
生きてゐるといふことも亦真実であるやうに思はれる。たとへば、「反時代的な芸術家」といふのは、私が
二十二、三歳のころに書いたエッセイだが、このエッセイの言つてゐることは、二十年後の私がそのまま実行して
ゐることである。

三島由紀夫「跋(『芸術の顔』)」より
0437名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/14(木) 13:35:08.70ID:sX9a73jq
ものを書くといふ仕事は呪はれてゐるのである。この仕事には、生の根本的な否定が奥底にひそんでゐる。
なぜなら、それは永生を前提にしてゐるからである。そして、ひとたび筆をとつたら、日記ですら、「生そのもの」の
冒涜に他ならないと感じるときに、告白は不可能になる筈である。荷風の「日乗」は一行も告白などしてゐない。

三島由紀夫「いかにして永生を?」より


覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対する青年の
側からの教育の力であらう。そして教育といふものは、いつの場合も、幾分か非人間的なものである。

三島由紀夫「青年について」より


論敵同士などといふものは卑小な関係であり、言葉の上の敵味方なんて、女学生の寄宿舎のそねみ合ひと大差が
ありません。


剣のことを、世間ではイデオロギーとか何とか言つてゐるやうですが、それは使ふ刀の研師のちがひほどの問題で、
剣が二つあれば、二人の男がこれを執つて、戦つて、殺し合ふのは当然のことです。

三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より
0438名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/14(木) 13:35:46.22ID:sX9a73jq
才能や理智や感情なら、早熟といふこともあらうけれど、魂自体には、早熟も晩熟もない。

三島由紀夫「もつとも純粋な『魂』ランボオ」より


日本人の美のかたちは、微妙をきはめ洗煉を尽した果てに、いたづらな奇工におちいらず、強い単純性に還元される
ところに特色があるのは、いふまでもない。永遠とは、くりかへされる夢が、そのときどきの稔りをもたらしながら、
又自然へ還つてゆくことだ。生命の短かさはかなさに抗して、けばけばしい記念碑を建設することではなく、
自然の生命、たとへば秋の虫のすだきをも、一体の壷、一個の棗(なつめ)のうちにこめることだ。ギリシャ人は
巨大をのぞまぬ民族で、その求める美にはいつも節度があつたが、日本人もこの点では同じである。

三島由紀夫「『人間国宝新作展』推薦文」より


表現といふものは、そもそも下劣なぐらゐの「人間的関心」なのであり、クールであることは逆説にすぎない。


個人が組織を倒す、といふのは善である。

三島由紀夫「『サムライ』について」より
0439名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/15(金) 16:45:48.94ID:k1K1XQxd
美しいヌード写真は、いはば、鍵をかけられた硝子の函の中の性である。


男性の色情が、いつも何らかの節片淫乱症(フェティシズム)にとらはれてゐるとすれば、色情はつねに部分に
かかはり、女体の「全体」の美を逸する。つまり、いかなる意味でも「全体」を表現してゐるものは、色情を
浄化して、その所有慾を放棄させ、公共的な美に近づけるのである。


動物的であるとはまじめであることだ。笑ひを知らないことだ。一つのきはめて人工的な環境に置かれて、
女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強ひられれば強ひられるほど、生まじめな動物の美を
開顕することを知らされる。それから突然、彼女たちの肉体に、ある優雅が備はりはじめる。

三島由紀夫「篠山紀信論」より
0440名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/15(金) 16:46:30.34ID:k1K1XQxd
飛行機が美しく、自動車が美しいやうに、人体は美しい。女が美しければ、男も美しい。しかしその美しさの
性質がちがふのは、ひとへに機能がちがふからである。飛行機の美しさは飛行といふ機能にすべてが集中して
ゐるからであり、自動車もさうである。しかし、人体が美しくなくなつたのは、男女の人体が自然の与へた機能を
逸脱し、あるひは文明の進歩によつて、さういふ機能を必要としなくなつたからである。
(中略)
機能に反したものが美しからう筈もなく、そこに残される手段は装飾美だけであるが、文明社会では、男でも女でも、
この機能美と装飾美の価値が巓倒してゐる。男の裸がグロテスクなどといふ石原慎太郎の意見は、いかにも文明に
毒された低級な俗見である。
このごろは、しかし、男性ヌードと称して女性的な柔弱な男の体がもてはやされてゐるのも、又別の俗見である。
もちろん、ヘルマフロディット的(男女両性をそなへた)な少年美といふものは存在するが、男の柔弱さだけを
美しいと思ふ今の流行は、単なる末流の風俗現象にすぎないのである。

三島由紀夫「機能と美」より
0441名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/16(土) 14:04:59.97ID:FWsHcrOU
政治への熱狂と、芝居への熱狂はひよつとすると、同じものではないだらうか。それはいづれも、幻への熱狂では
ないだらうか。現にここにあるものを否定して、ここにある筈のないものを、今ここにあるかのやうに信じて、
それに酔ふといふ熱狂は。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』について」より


エロティシズムが本来、上はもつとも神聖なもの、下はもつとも卑賎なものまで、自由につながつた生命の本質で
あることは、「古事記」を読めばよくわかることだが、後世の儒教道徳が、その神聖なエロティシズムを
忘れさせて、ただ卑賎なエロティシズムだけを、日本人の心に与へつづけて来たのであつた。

三島由紀夫「バレエ『憂国』について」より


電子計算機を使ふ人間が、ともすると忘れてゐることは、電子計算機の命令に従つて動くのはよいが、人間は
疲れるのに、電子計算機は決して疲れない、といふことである。人間にとつて、疲労は又、生命力の逆の
証明なのだ。

三島由紀夫「クールな日本人(桜井・ローズ戦観戦記)」より
0442名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/16(土) 14:07:48.74ID:FWsHcrOU
激情のあとに、突然、ある静かな冷たい受容が生れ、そこから又、新らしい力が湧いてくる。激情は思想である。
力は生である。その二つを最終的に一致させれば、そこに「第一義の道」はひらけるのであるが、そのポジティヴな
一致が「政治」であれば、ネガティヴな一致は「自然」である。

三島由紀夫「解説(『日本の文学40林房雄・武田麟太郎・島木健作』)」より


白日夢が現実よりも永く生きのこるとはどういふことなのか。人は、時代を超えるのは作家の苦悩だけだと
思ひ込んでゐはしないだらうか。

三島由紀夫「解説(『日本の文学4尾崎紅葉・泉鏡花』)」より


よき私小説はよき客観小説であり、よき戯曲はよき告白なのである。

三島由紀夫「解説(『日本の文学52尾崎一雄・外村繁・上林暁』)」より


ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日のわれわれの胸にも直ちに
通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。

三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より
0443名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/17(日) 15:51:06.23ID:x4zcUtlp
実は白状すると、私は舞台へ背を向けて、客席を見てゐるはうがよほどおもしろかつた。何のために興奮するか
わからぬものを見てゐるのは、ちよつと不気味な感動である。私だつて、興奮が自分の身にこたへれば、エレキ
だらうと、何だらうと偏見はない。(中略)
しかし、今目の前に見てゐる光景は、原因不明で、いかにも不気味である。
私の数列うしろの席は、ビートルズ・ファンの女の子たちに占められてゐたが、その一人はときどき髪を
かきむしつて、前のはうへ垂れてきた髪のはじをかんでゐるが、アイ・ラインが流れだしてゐる恨むがごとき
目をして、舞台をじつと眺めてゐる顔は、まるでお芝居の累である。(中略)
何で泣くほどのことがあるのか、わけがわからない。もつとも女の子は、たいてい、大してわけのないことにも
泣くものである。ふとつた子が、身も世もあらぬ有様で、酸素が足りないみたいに口をパクパクさせると思ふと、
急に泣きながら、
「ジョージ!」
「リンゴ!」
などと叫びだすのを見ると、心配になつてしまふ。

三島由紀夫「ビートルズ見物記」より
0444名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/17(日) 15:51:59.86ID:x4zcUtlp
熱狂といふものには、何か暗い要素がある。
明るい午後の野球場の熱狂でも、本質的には、何か暗い要素をはらんでゐる。そんなことは先刻承知のはずだが、
これら少女たちの熱狂の暗さには、女の産室のうめき声につながる。何かやりきれないものがあるのはたしかだ。
だからビートルズがいいの悪いの、と私は言ふのではない。また、ビートルズに熱狂するのを、別に道徳的堕落だとも
思はない。ただ、三十分の演奏がをはり、アンコールもなく、出てゆけがしに扱はれて退場する際、二人の少女が、
まだ客席に泣いてゐて、腰が抜けたやうに、どうしても立ち上がれないのを見たときには、痛切な不気味さが
私の心をうつた。そんなに泣くほどのことは、何一つなかつたのを、私は知つてゐるからである。
虚像といふものはおそろしい。

三島由紀夫「ビートルズ見物記」より
0445名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/17(日) 23:21:17.84ID:x4zcUtlp
「まづ身を起こせ」といふのが、生来オッチョコチョイの私の主義であつて、「核兵器よりもまづ駆け足」といふ
ことを、隊付をして学びえたと思つてゐる。人間の脚は、特に国土戦において、バカにならぬ戦場機動速度を
持つのである。

三島由紀夫「自衛隊と私」より


世間の全体の傾向は、イデオロギーの終焉といふお題目だの、世界国家への道といふ空疎な世迷ひ言だのに
飾られながら、「何よりも秩序が大切だ」といふ平均的世論の味方をするやうになつてゐる。「平和と安全の
ため」なら、「国益のため」なら、どんなお妾修業でもしよう、といふ保守的感覚と、「平和と秩序のため」なら、
どんなイデオロギーでも呑み込まうといふ民衆感覚とは、政治的には右と左に別れるやうだが、その実、よく
似たメンタリティーに基礎を置いてゐる。大体身の安全しか考へない人間は、どつちへころぶか知れたものでは
ないのである。

三島由紀夫「秩序の方が大切か――学生問題私見」より
0446名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/17(日) 23:22:05.87ID:x4zcUtlp
人間性を十全に解放したらどうなるか。こはいことになるんだよ。紙くづだらけはまだしも、泥棒、強盗、強姦、
殺人……獣に立ち返る可能性を人間はいつももつてゐる。

三島由紀夫「東大を動物園にしろ 核兵器だつて使ふだらう」より


未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないといふ生活をしてゐる奴が何人ゐるか。
現在ただいましかないといふのが“文化”の本当の形で、そこにしか“文化”の最終的な形はないと思ふ。
小説家にとつては今日書く一行が、テメへの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、
どうして今日書く一行に力がこもるかね。その一行に、自分の中に集合的無意識に連綿と続いてきた“文化”が
体を通してあらはれ、定着する。その一行に自分が“成就”する。それが“創造”といふものの、本当の意味だよ。
未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。

三島由紀夫「東大を動物園にしろ 未来を信ずる奴はダメ」より
0447名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/17(日) 23:23:00.27ID:x4zcUtlp
「ぜいたくを言ふもんぢやない」
などと芸術家に向つて言つてはならない。ぜいたくと無い物ねだりは芸術家の特性であつて、それだけが
芸術(革命)を生むと信じられてゐる。

三島由紀夫「不満と自己満足――『もつとよこせ』運動もわが国の繁栄に一役」より


日本の文化は何度も何度もフィルターにかけられて、一つのものが、時代が下るにつれて極度に理想化された。
世阿弥の能の時にはすでに新古今集のフィルターをかけた王朝文化がその理想で、これはあこがれの産物とも言へる。
このあこがれはずつと武家階級に続き、禅的な文化へと尾を引いてますます美化されていつた。世阿弥のところで、
十四世紀までの文化は全部ダムになつてゐて、あそこから電気が出てゐるやうな感じがする。ところで日本の
近代文化といふものは、さういふことを一度もやつてゐない。つまり古代文化を一度われわれの時代のフィルターに
かけて、それを大きな電力を生ずるやうなダムにするといふことをだれもやつてゐない。

三島由紀夫「世阿弥に思ふ――鼎談に参加して」より
0448名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/19(火) 10:41:57.15ID:P/Vqi4zT
年のはじめだけに、なぜ伝統が意識され、古い日本がいかにも美しく感じられるのであらうか。思ふに、日本といふ
泉が、そのときだけ心の底から、澄んだ水をほとばしらせるのは、われわれが新らしい年に直面する不安と恐怖を、
過去にくりかへされてきたおめでたい伝承の復活でふりはらはうとするときに、その泉の水の澄んだ生命の力の
持続性にたよらうとするからであらう。本当のところ、新らしいものは怖い。新らしい年は怖い。未来は怖い。
未来が全然怖くないのなら、その人は人間ではない。怖いからこそ、われわれはその未知に、自分の一番大切な
ものである希望を懸けるのである。

三島由紀夫「月々の心 伝承について」より


人間にとつての悲劇は、もう若くないといふことではなくて、心ばかりがいつまでも若いといふところにあるやうに、
夏が去つたあとも我々の心に夏が燃えつきないのが悲劇なのだ。

三島由紀夫「月々の心 夏のをはり」より
0449名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/19(火) 10:42:32.53ID:P/Vqi4zT
国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、政治的鉄則であるやうに思はれる。
そして一時的に中道政治を装つて、国民を安心させて、一気にベルト・コンベアーに載せてしまふのである。


ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、爽やかさ、晴れやかさが、
彼には徹底的に欠けてゐた。ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。

三島由紀夫「『わが友ヒットラー』覚書」より


「しがらみ」からの解放といふことが、一体男性的なことであるか大いに疑はしい。自由が人を男性的にするか
どうかは甚だ疑はしい。

三島由紀夫「鶴田浩二論――『総長賭博』と『飛車角と吉良常』のなかの」より


ウワーッと両手で顔をおほつて、その指のあひだから、こはごはながめて「イヤだア」とかなんとか言つて
ゐる手合ひを野次馬といふ。私に対する否定的意見は、すべてこの種の野次馬の意見で、私はともあれ、
交通事故なのだ。

三島由紀夫「感想 広域重要人物きき込み捜査『エッ! 三島由紀夫??』」より
0450名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/23(土) 18:06:03.43ID:rKrLgrbD
空手は武器を禁じられた沖縄島民の民族の悲願が凝つて成つた武道ときいてゐる。日本の戦後も占領軍による
武装解除がそのまま平和憲法に受けつがれ、徒手空拳で戦ひ、徒手空拳で身を守るほかに、民族の志を維持する道を
ふさがれてゐる。
空手道が戦後の日本で隆盛になつたのは決して偶然ではない。

三島由紀夫「第十一回空手道大会に寄せる……」より


刀が武士の魂といはれ、筆が文士の魂といはれるのは、道具を使つた闘争や芸術表現が、そのまま精神のあらはれに
なるためには、その道具と生体の一体化が企てられねばならぬ、といふ要請から生れた言葉であらう。道具が
生体の一部になればなるほど、道具はただの道具ではなくなり、手段はただの手段ではなくなり、魂といふ幹の
一本の枝になつて、そこにまで魂の樹液が浸透して、魂の動くままに動き、いはば道具は透明になるであらう。
そのとき、手段と目的、肉体と精神、行動と思想の、乖離や二元性は完全に払拭されるであらう。

三島由紀夫「空手の秘義」より
0451名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/23(土) 18:06:43.94ID:rKrLgrbD
現代に政治を語る者は多い。政治的言説によつて世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、情報を蒐集し、
これを理論化体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の上つ面を撫でるだけの、究極的には
ニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に墜するのは何故だらうか。このごろ特に私の痛感する
ところであるが、この複雑多岐な、矛盾にみちた苦悶の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな
不毛の現代社会に於て、真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか? 日本もそこまで来てゐるやうに
思はれる。

三島由紀夫「『占領憲法下の日本』に寄せる」より


もつとも美しい男の服装は剣道着である。手に藍のつくやうな、匂ふやうな濃い藍の稽古着、袴に、黒胴と垂れを
つけた姿ほど、日本男児の美しさを見せるものはない。

三島由紀夫「男らしさの美学」より


正しい力は崇高であり、汚れた力は醜悪であることは、あたかも、清い水は生命をよみがへらせ、汚ない水は
人を病気にさせるのに似てゐる。

三島由紀夫「『第十二回全国空手道選手権大会』推薦文」より
0452名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/24(日) 09:17:23.73ID:+NjyLdAJ
羞恥心は微妙なパラドキシカルな感情である。自分について羞恥心を抱いてゐるとき、人は又、ひそかに、
あたかも罪悪感のやうなナルシシズムを抱いてゐるかもしれず、憎悪と愛とのアンビヴァレンツを隠してゐるかも
しれない。それだけ羞恥心は、自分の内部の深いものとインティメートな感情の、隠れ家であつたかもしれない。
日本人が日本の古い習俗を「蛮風」として恥ぢてゐたときには、どこかで心の一部がその蛮風に支配されて
ゐたときかもしれない。心のみならず、自分の生活感情や社会意識に、ひそかに、そんな蛮風が影を落してゐた時
かもしれない。


文明人がプリミティヴィズムを内部に蔵してゐるのは、何と素敵なことであらう。蒼ざめた都市生活者であること
よりも、noble savage であるといふことは、現代人として何と誇らしいことであらう。一国の文化の底の底を
掘り起しても、何ら原始的な生命の根に触れえないやうな「文明国民」とは、何と十九世紀的で、何と時代おくれな
ことであらう!

三島由紀夫「序(矢頭保写真集『裸祭り』)」より
0453名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/24(日) 09:18:45.13ID:+NjyLdAJ
不思議なことに色気の感じられる女は、昔から単に陰性な、内気一方の女ではなく、どこかに凜とした男まさりの
ところがなければならない。


性的魅力において自分よりすぐれてゐると思はれる女を、男に紹介するバカな女はゐないのである。


ひたすら男性の嗜好に合はせて長い訓練を経て形成された色気といふものに対して、女はある本能的な敵意を
持つてゐるものであるらしい。


多くの女に色気があると言はれてゐる男は、概して男の世界では顰蹙と軽蔑の対象である。もちろんその中には
羨望や嫉妬がまじつてゐないとは言へないが、そのやうな男は概して男の理想的なイメージとはなりにくいのである。
なぜならば、男がみづから克服したいと思つてゐる欠陥を女は愛するからである。勝利者にあこがれる女よりも
敗北者にあこがれる女のはうが圧倒的に多い。

三島由紀夫「女の色気と男の色気」より
0454名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/24(日) 09:31:57.82ID:+NjyLdAJ
体操といふものに、私は格別の興味を持つてゐる。それは美と力との接点であり、芸術とスポーツの接点だからである。
ほかのスポーツのやうに、芸術の岸から見て完全に対岸にあるものでない。
(中略)
はいつていきなり遠藤選手の床運動(徒手)を見たが、ひろいマットの上の空間に、ジョキジョキよく切れる鋏を
入れて、まつ白な切断面を次々に作つてゆくやうな美技にあきれた。私たちはふだん、自分の肉体のまはりの空間を、
どんよりと眠らせてはふつておくのと同じことだ。
あんなに直線的に、鮮やかに、空間を裁断してゆく人間の肉体、全身のどの隅々にまでも、バランスと秩序を
与へつづけ、どの瞬間にもそれを崩さずに、思ひ切つた放埒を演ずる肉体。……全く体操の美技を見ると、人間は
たしかに昔、神だつたのだらうといふ気がする。といふのは、選手が跳んだり、宙返りしたりした空間は、全く
彼の支配下にあるやうに見え、選手が演技を終つて静止したあとも、彼が全身で切り抜いてきた白い空間は、
まだピリピリと慄へて、彼に属してゐるやうに見えるからだ。

三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点――体操の練習風景」より
0455名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/24(日) 09:32:24.95ID:+NjyLdAJ
(中略)
われわれには苦行である倒立でさへ、その一点で休むことができるとなれば、蝙蝠(かうもり)のやうなものだ。
スポーツの奇蹟は、人間の肉体といふものが、鍛へやうによつては、どんな思ひがけないところに、どんな
思ひがけない楽園を発見するかわからないといふ点だ。常人の知らない別世界の感覚の発見……。酒や阿片とは
反対のものだが、スポーツがやめられなくなるのは、やはりそれがあるからであらう。
(中略)
さつき神のやうだつた選手は、かうして会つてみると、風貌、態度のどこにも人間離れのしたところはない。
むしろ休息時の選手の顔に浮んでゐるその平均的日本人の日常的表情と、あの神業との間をつなぐ、「練習」といふ
苛酷な見えない鎖が感じられる。それは神と人間をむりやりに結びつける神聖な鎖なのだ。

三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点――体操の練習風景」より
0456名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/26(火) 09:29:41.70ID:F9HuHbJr
オリンピックの非政治主義は、政治の観念の浄化と見るほかなく、政治を人間の心から全然払拭することはできまい。
さて、今日の初日の第一戦は、昨日の抽選組合せによつて決つたことだが、韓国の鄭申朝選手と、アラブ連合の
H・ファラグ選手の対戦であつた。(中略)
「オリンピック東京大会、第一日目を開始いたします」
といふアナウンスのあとで、登場したこの二人の試合は、アラブ連合がしばしばスリップダウンをし、韓国が
判定で勝つたが、判定を待つあひだ、レフェリーを央にして、選手が二人直立して正面に向つてゐた姿は、プロ・
ボクシングを見馴れた目には、すがすがしく、気持がよかつた。
これで最初の日の勝敗が決まつたのであるが、韓国選手の謙虚な勝利者としての表情と共に、アラブ連合選手の
心を思つて、私はシャルル・ビルドラックの「兵卒の歌」の最後の聯を思ひ出して、一種の羨望を感じた。
「私は、むしろ私はなりたい、
戦争の第一日目に
第一に倒れた兵卒に。」(堀口大学氏訳)

三島由紀夫「競技初日の風景――ボクシングを見て」より
0457名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/26(火) 09:30:41.43ID:F9HuHbJr
何といふ静かな、おそろしいサスペンス劇だらう。(中略)
それは冷たく、鉄の敵意にみちた重量を保ち、ものすごい圧力を放射してゐる。人間が「物」の世界と、一対一で
対決するのだ。一番重量あげに似てゐるのは、あるひはロック・クライミングかもしれない。
だから、もちろん選手がバーベルを高くさしあげたときの感動もさることながら、私は、いよいよバーベルに
とりつく前の選手の緊張に興味があつた。多少ともウエート・トレーニングをした人間には、この瞬間の恐怖と
逡巡がわかるはずだ。韓国のキン・ヘナム選手は必ずバーベルのぐあひをたんねんにしらべ、ポーランドの
コズロスキー選手は、手をかけてから長いこと腕の筋肉をふるはせ、日本の三宅選手は相撲の仕切りのやうに
長い時間をかけて、何度か天を仰いだ。
これはおのおのの就寝儀式のやうなものであつて、それをやらなければ安眠できない。

三島由紀夫「ジワジワしたスリル――重量あげ」より
0458名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/26(火) 09:31:41.69ID:F9HuHbJr
ひとたび眠ることができれば、完全に眠ることができれば、眠りの中では、丸ビルを持ち上げることだつて
可能だらう。精神集中の究極の果てに、一つの自由な空白状態がポカリと顔を出すのだらう。そのとき力が、
おそらく常の人間の能力を超えるのだらう。
地球を負ふアトラスの忍苦に似た、あくまで押へに押へぬいた努力のいるこのスポーツは、たしかに日本人の
一面に適してゐる。三宅選手は、リングの上ではむしろのんきに見え、豪放に見えるが、こんなに綿密な力の
計算を積み上げてゆくには、青空の下のスポーツとちがつて、研究室の中の科学者みたいな内向的な長い努力が
いつたはずだ。彼は金メダルを本当に計算づくでとつたのだと思ふ。鉄のバーベルの暗い、やりきれない、
うつたうしい圧力と戦ひながら。
(中略)
金メダルを受けた三宅選手は、実に自然なほほゑましい態度で、そのメダルを観衆の方へかかげて見せた。彼は
そのとき、あの合計397.5キロの鉄の全量に比べて、金のたよりない軽さを感じたかもしれない。美麗の
その黄金の羽根のやうな軽さを。

三島由紀夫「ジワジワしたスリル――重量あげ」より
0459名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/26(火) 20:35:36.48ID:F9HuHbJr
家庭にはひりこんでくるテレビの威力の前に、子どもたちを守らうとしても、もうむだです。よい言葉やよい
しつけについては、おとなでさへ忘れてしまつてゐる時代です。何がよいことで、何がわるいことか、子どもたちは
わかりやすい簡単な基準を与へてほしがつてゐるのですが、それを与へることのできない親たちは、子どもたちを
しかる資格さへ失つてゐるのです。


ある形に結晶し完成された生活や道徳は、その安定した美しさで、別の美しさを誘ひ出します。一つの美しさは
別の美しさと照応し、一つの美しさによつて別の美しさが誘ひ出される。これが美の法則でもあり、道徳の法則でも
あります。美しさは「誘ひ出される」のです。もしこれが確信を持たぬ不完全な美なら心をうちますまいし、
またもしこれが風土に根ざさぬ抽象的な高遠な人類愛のお話なら心をたのしませないでせう。遠い歴史と風土の
中に咲く花であつても、小さく咲いた完全なえにしだは、日本の可憐な夕顔の親せきになり、われわれの心に、
忘れてゐた夕顔の美しさを誘ひ出すのです。

三島由紀夫「序(セギュール夫人作 松原文子・平岡瑤子訳『ちっちゃな淑女たち』)」より
0460名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/26(火) 20:36:47.74ID:F9HuHbJr
日本人は何度でも自国の古典に帰り、自分の源泉について知らねばならない。その泉から何ものかを汲まねば
ならない。この「源泉の感情」が涸れ果てるときこそ、一国一民族の文化がつひに死滅するときであらう。

三島由紀夫「文化の危機の時代に時宜を得た全集(『日本古典文学全集』推薦文)」より


政治に暗く、経済に暗く、社会に暗く、しかしその暗い全景の一部分に、丁度ルネッサンスの風景画のやうに、
啓示のやうな光りを強く浴びてゐる部分がある。そこだけ草が輝き、羊の背が光つてゐる。そこだけ木立は光りに
あふれた籠のやうに見え、そこだけ流れは光彩を放つてゐる。そここそは、女だけに特権的な、不可侵の情念の
領域なのだ。

三島由紀夫「詩集『わが手に消えし霰』序文」より


まじめで良心的なのも思想だが、不まじめで良心的といふ思想もあれば、又、一番たちのわるいのに、まじめで
非良心的といふ思想もある。

三島由紀夫「あとがき(『行動学入門』)」より
0461名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/27(水) 15:47:15.70ID:0YW44Nob
偉大な作家には、おもてむきの傑作と、裏側の傑作があるらしい。顕教的顕仏的傑作と、密教的秘仏的傑作と
言ひかへてもよい。

三島由紀夫「『眠れる美女』論」より


天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのはうに作家の諸特質や、その後
発展させられずに終つた重要な主題が発見されることが多いのである。

三島由紀夫「解説(『新潮日本文学6谷崎潤一郎集』)」より


性の拒否が最高の性のよろこびに到達する大詰の童話の結婚式は、あらゆる童話における、
「それから王子様と王女様は世界でいちばん倖せに暮しました」
といふ決り文句の、ほとんど猥褻なひびきを伝へるものでなければならない。至福の猥褻さは、死の猥褻さに
似てゐる。現世離脱は、同時に、自己からの離脱である。

三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より
0462名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/27(水) 15:47:53.68ID:0YW44Nob
男が男であるためにつまづく、といふ例は現代ではますます少なくなつてゆく。男性の女性化とは、男性の
自己保全であり、なるたけ安全に生きよう、失敗しないで生きようとすることを意味します。

三島由紀夫「『複雑な彼』のこと」より


私は自分のものの考へ方には頑固であつても、相手の思想に対して不遜であつたことはないといふ自信がある。
これが自由といふものの源泉だと私には思はれる。

三島由紀夫「『尚武のこころ』あとがき」より


言葉で表現する必要のない或るきはめて重大な事柄に関はり合ひ、そのために研鑽してゐるといふ名人の自負こそ、
名人をして名人たらしめるものだが、さういふ人に論理的なわかりやすさなどを期待してはいけないのである。

三島由紀夫「あとがき(『源泉の感情』)」より
0463名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/30(土) 20:02:02.28ID:c3NFLwQn
日本の選手の出ない飛び板飛び込みの決勝から見たが、体操でも、この飛び板飛び込みでも、落下のほんの瞬間に、
人体が地球の引力に抗して見せるあの複雑な美技には、ほとほと感嘆のほかはない。あの落下の一秒の間に、
花もやうを描いてみせるその人間意志のふしぎな働きとその自己統制力は、自然(引力)へのもつとも皮肉な
反抗であり、犬が人間にじやれつくやうに人間がきびしい自然にじやれつく最高の戯れだらうが、十二日ソ連から
打ち上げられたウォスホート号もまた、引力に対するかういふ人間の反抗の究極的な形であつて、われわれは、
もう人間であると同時に、自然に対して従順さを失ふといふわけだ。その意味でオリンピックはやはり「文化的」な
お祭りであり、スポーツもまたホイジンガの説のとほり、遊戯としての文化なのであらう。

三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より
0464名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/30(土) 20:02:37.79ID:c3NFLwQn
重量あげなどの、ジワジワと胸をしめつけるドラマチックな競技とちがつて、水泳競技は、単純なまつすぐな
人間意志の推進力を、美しくさはやかに見せるだけだから、その印象はひたすら直截で、ドラマといふより、
青いプールを縦に切るあの白いロープのやうに、一行の激しい白い叙情詩だ。女子百メートル背泳の決勝で、
ただ一人日本人選手として登場した田中嬢は、白い長いガウンに水泳帽、その長い髪のほのめくさまが、遠くからも
見えた。プールぎはの朱いろの椅子にかけた嬢は、つつましく膝をすぼめて、どの選手よりも優雅に見えた。
しかしガウンを脱ぎ捨てて黒い水着姿になつた彼女は、その強靭な、小麦色の体躯に、こまかいバネがいつぱい
はりつめてゐるやうな感じで、それはただ一人決勝に残つた日本女性の、しなやかな女竹のやうな姿絵になつた。
田中嬢が泳ぎはじめる。もうあと一分あまりの時間ですべての片がつく。

三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より
0465名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/30(土) 20:03:51.52ID:c3NFLwQn
彼女は長い長い練習の水路をとほつて、ここにやつとたどりついた一艘の黒い快速船になる。水しぶきの列のなかで
帰路、彼女の水しぶきは少し傾いて、ともするとロープにふれる。……それにしても八本のコースに立てられた
八つの水しぶきが、みんな女の腕の立てるしぶきだと思ふと、すさまじい。これは女性八人のもつとも崇高な
おしやべりといふべきだらう。
泳ぎ終つた田中嬢は、コースに戻つて、しばらくロープにつかまつてゐたが、また一人、だれよりも遠く、
のびやかに泳ぎだした。コースの半ばまで泳いで行つた。その孤独な姿は、ある意味ですばらしくぜいたくに見えた。
全力を尽くしたのちに、一万余の観衆の目の前で、こんなにしみじみと、こんなに心ゆくまで描いてみせる彼女の
孤独。この孤独は全く彼女一人のもので、もうだれの重荷もその肩にはかかつてゐない。一億国民の重みも
かかつてゐない。
田中嬢は惜しくも四位になつたが、そのときすでに彼女はそれを知つてゐたにちがひない。

三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より
0466名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/31(日) 10:16:20.57ID:bvKedSEa
日本選手でただ一人決勝に残つた佐々木があらはれて、プールぎはの朱色のプラスチックの椅子に脱衣する。(中略)
かういふ日常生活の動作は、こんな晴れの舞台でも、実に孤独なものだ。紺と白のパンツをつけた、きつね色の
よく引き締つた裸体があらはれる。ここからやうやく、輝やかしいオリンピック選手が、日常性のモチから
身を引き離して出発するのだ。
スタート台の上で、一コースの選手をチラと見てから、手首を振る。両手を楽に前へさしのべたフォームで、
柔らかに飛び込む。競技はこんなふうに、どんな会社よりも事務的にはじまるのだ。
水が佐々木の体を包んだ。それから先は、彼はもう重い水と時間と距離とを、一心に自分のうしろへかきのけて
ゆくしかない。
高い席からながめてゐると、八つのコースの選手たちの立てる音は、さわさわといふ笹の葉鳴りのやうな水音に
すぎない。ひるがへる腕は、みんな同じ角度で、褐色のふしぎな旗のやうに波間にひらめく。
――四百メートル。
佐々木は大分引き離された。ターンするところで、あと残つてゐる回数の札を示される。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
0467名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/31(日) 10:17:06.85ID:bvKedSEa
その大きなあきらかな数字は、おそらく水にぬれた目に、水しぶきのむかうに、嘲笑的に歪んで映るのだらう。
出発点の水にぬれたコンクリートの上には、選手たちの椅子が散らばつてゐる。佐々木の椅子には、赤いシャツと、
足もとの白い運動靴とが、かなたに水しぶきを上げて戦つてゐる主人の帰りを、忠犬のやうにひつそりと待つてゐる。
これらの椅子のずつとうしろには、記録員たちが控へ、さらに後方に、今日はすでに用ずみの飛込用プールが、
いま水の立ちさわぐメーン・プールとは正に対照的に、どろんとしたコバルト・グリーンの水をたたへてゐる。(中略)
――六百メートルに近づき、佐々木は六位を保つてゐる。
出発点へ選手が近づくたびに、大ぜいの記録員たちはおのがじし立ち上り、ぶらぶらと水ぎはへ近寄り、
スプリット・タイム(途中時間)を記録し、また、だるさうに席へ戻る。必死で泳いでゐる選手と記録員とは、
こんなふうにして、十五回も水ぎはで顔を合せるわけだ。そのときほど、この世の行為者と記録者の役割、
主観的な人間と客観的な人間の役割が、絶妙な対照を示しながら、相接近する瞬間もあるまい。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
0468名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/07/31(日) 10:18:07.48ID:bvKedSEa
――千メートル。
オーストラリアのウィンドル、11分16秒3といふ途中時間のアナウンス。
千五十メートルのところで、あと九回といふ9の札が示される。
佐々木はひたすら泳ぐ。水に隠見する顔は赤らんでみえる。あの苦しげな、目をつぶり口をあいた顔、あのぬれた顔、
ぬれた額の中に、どんな思念がひそんでゐるか? あんな最中にも、人間は思考をやめないのは確実なことで
「ただ夢中だつた」などといふのは、嘘だと私は思ふ。それこそ人間といふ動物の神秘なのだ。たとへそれが、
一点の、小さな炎のやうな思念であらうとも。
最後の百メートル。真鍮の鈴が鳴らされ、選手はラスト・スパートをかける。
佐々木は六位だつた。平然と上げてゐる顔を手のひらで大まかにぬぐひ、出発の時と同様、左の手首をちよつと振つた。
それが彼の長い旅からの、無表情な帰来の合図だつた。この若者はまた明日、旅の苦痛を忘れて、つぎの新しい
旅へ出るだらう。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
0469名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/01(月) 16:48:56.21ID:1GS4awZT
陸上競技はオリンピックのもつともオリンピック的なものであらう。それは明るい青空の下で、人間の影を大地に
小さく宿して、整然と、明朗に、数学的に進行する。もちろんスポーツだから、熱狂はある。情熱はいる。
必死の闘志はいる。それは競技場高く、淡い黒煙を引き、雲を背景に風にあふられてゐる聖火の炎が代表してゐる。
その白昼の炎は、この理智的な世界の、唯一の許された狂気なのだ。
(中略)
競歩ははじめて見たが、これはいかにもユーモラスでおもしろい競技であり、日本人選手も小柄で、出場者は概して
アスリートらしくなく、全体が商店連合会の運動会といふ感じがする。駈けるに駈けられぬその厄介な制約は、
ちやうど夢の中で悪者に追ひかけられるときの動きのやうで、上半身は必死に急いでゐるのに、下半身はキチンと
一定の歩度を守るのだ。
この一群が、喝采に送られながら北口から出てゆくと、やがて、今日のハイライトである百メートルの決勝が
はじまる。

三島由紀夫「空間の壁抜け男――陸上競技」より
0470名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/01(月) 16:49:32.98ID:1GS4awZT
三時半、フィールドはもう三分の一ほど影の中に包まれてゐる。走路の手直しのために多少時間がおくれ、
四十分ごろ、アメリカのヘイズが第一コース、ドイツのシューマンが第二コースに、といふぐあひに、選手たちが
スタート・ラインについた。
それから何が起つたか、私にはもうわからない。紺のシャツに漆黒な体のヘイズは、さつきたしかにスタート・
ラインにゐたが、今はもうテープを切つて彼方にゐる。10秒フラットの記録。その間にたしかに私の目の前を、
黒い炎のやうに疾走するものがあつた。しかも、その一瞬に目に焼きついた姿は、飛んでもゐず、ころがりもせず、
人間の肉体の中心から四方へさしのべた車輪の矢のやうな、その四肢を正確に動かして、正しく「人間が走つて
ゐる姿」をとつてゐた。その複雑な厄介な形が、百メートルの空間を、どうしてああも、神速に駆け抜けることが
できるのだらう。彼は空間の壁抜けをやつてのけたのだ。
しかし、十秒間の一瞬一瞬のそのむしろ静的な「走る男」の形ほど、金メダルの浮彫の形にふさはしいものは
なかつた。

三島由紀夫「空間の壁抜け男――陸上競技」より
0471名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/03(水) 10:36:52.41ID:fIwug+ZM
体操ほどスポーツと芸術のまさに波打ちぎはにあるものがあらうか? そこではスポーツの海と芸術の陸とが、
微妙に交はり合ひ、犯し合つてゐる。満潮のときスポーツだつたものが、干潮のときは芸術となる。そして
あらゆるスポーツのうちで、形(フォーム)が形自体の価値を強めれば強めるほど芸術に近づく。どんなに
美しいフォームでも、速さのためとか高さのための、有効性の点から評価されるスポーツは、まだ単にスポーツの
域にとどまつてゐる。しかし体操では、形は形それ自体のために重要なのだ。これを裏からいへば、芸術の本質は
結局形に帰着するといふことの、体操はそのみごとな逆証明だ。
十月二十日の夜、東京体育館の記者席から、まばゆい光りの下、マット上に展開される各国選手の、人間わざとも
思へぬ美技をながめながら、私はそんな感想を抱いた。
双眼鏡で遠い鉄棒の演技をながめてゐると、手を逆に持ちかへるときに、掌にいつぱいまぶしたすべりどめの粉が
パッと散る。それは人体が描く虚空の花の花粉である。

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
0472名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/03(水) 10:37:28.03ID:fIwug+ZM
徒手体操では、人体が白い鋏のやうに大きくひらき、空中から飛んできて、白い蝶みたいに羽根を立てて休み……
ともかく、われわれの体が、さびついた蝶番(てふつがひ)の、少ししか開かないドアならば、体操選手の体は、
回転ドアのやうなものだ。そして、極度の柔らかさから極度の緊張へ、空虚から突然の充実へ、力は自在に変転して、
とどまるところを知らない。もつともバランスと力を要する演技が、もつとも優美な静かな形で示される。そのとき、
われわれは、肉体といふよりも、人間の精神が演じる無上の形を見る。
ポオル・ヴァレリーが「魂と舞踊」の中で、肉体が「魂の普遍性を真似ようとするのだ」と書いてゐるのは、
この瞬間であらう。
「おお、とうとう彼女は例外の世界にはいった。ありえないもののなかへ突入したのだ!」
「理性そのものが見る警戒と緊張の夢! (中略)夢ではあるが、左右均斉の妙をきわめ、すべてが行為であり
脈絡である夢!」

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
0473名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/03(水) 10:38:01.89ID:fIwug+ZM
――しかしスポーツとしての体操は、意地のわるい減点による競技であり、批評による競技なのだ。
小野は徒手で、遠藤はあん馬で、見のがしえぬミスをやつたが、実際、人間なら、あやまちを犯すはうがふつうで、
あやまちを犯さないのは人間ではない。それらのミスにこそ、むしろわれわれと共通した人間の日常感覚が
ひらめいてゐる。ほんのちよつとよろめくこと、ちよつと姿勢が傾くこと、ほんのちよつと足があん馬にさはること、
ほんのちよつと演技の流れが停滞すること……これこそわれわれが「人間性」と呼んでゐるところのもので、
半神であることを要求される体操競技では、人間性を示したら、たちまち減点されるのである。
この世に、ほんの数秒の間であらうと、真のあやまりのない秩序を実現するのはたいへんなことだ。体操選手たちは、
その秩序を、少なくとも政治や経済よりはるかに純度の高い形で、人間世界へもたらすために努力する。

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
0474名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/03(水) 10:38:43.29ID:fIwug+ZM
遠藤選手のあん馬のあとで、十数分のものいひがついたあと、五月人形のやうな無邪気な顔と体をした三栗選手が
登場して、おちついた、正しい演技を示して九・六五をとつたのには感服した。
小野選手の右肩の負傷にめげぬ敢闘にも心を搏たれ、同じ三十代の私は、年齢と肉体のハンディキャップを
越えたその闘志に拍手を送つた。練習時間のあひだから、鉄棒は彼の肩を冷酷に責めてゐた。そのとき肩は、
彼の目ざす秩序の敵になり、敵軍に身を売つたスパイのやうに彼を内部から苦しめてゐた。
優勝者遠藤さへ、退場の際、心なしか暗い目をしてゐたのを考へると、体操選手を悩ます「完全性」の悪夢が、
どれほどすさまじいものであるかがうかがはれる。

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
0475名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/06(土) 20:13:03.09ID:XdmI+3R/
選手たちの登場。宮本がそのすらりとしたからだと、栗鼠を思はせるかはいらしい顔で、機械人形のやうに
おじぎをする。
東側の選手家族席では、宮本のおとうさんがなくなつたおかあさんの大きな写真を膝に抱いて観戦してゐる。
練習がはじまる。お祭りの風船のやうに、たくさんのボールが空に浮ぶ。七時三十分。琴の音楽がはじまり、
いよいよ日本のアマゾンたちと、ソ連のアマゾンたちとの熱戦が開始される。
バレーボールの緊張は、ボールが激しくやりとりされるときのスリルにあることはいふまでもないが、高く
投げ上げられたボールが、空中にとどこほつてゐる時間もずいぶん長く感じられる。そのボールがゆつくりと
おりてくる間のなんともいへない間のびのした時間が、実はまたこの競技のサスペンスの強い要素なのだ。ボールは
そのとき、すべての束縛をのがれて、のんびりとした「運命の休止」をたのしんでゐるやうに見えるのである。
第一セットでやや堅くなつてゐた日本は、第二セットでははるかにソ連を引き離し、余裕のあるゲームを見せたが、
なかんづく目につくのは河西選手の冷静な姿である。

三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」より
0476名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/06(土) 20:14:01.14ID:XdmI+3R/
彼女が前衛に立つとき、水鳥の群れのなかで一等背の高い水鳥の指揮者のやうに、敵陣によく目をきかせ、アップに
結ひ上げた髪の乱れも見せず、冷静に敵の穴をねらつてゐる。ボールは必ず一応彼女の手に納まつたうへで、
軽くパスされて、ネットの端から、敵の盲点をつくやうに使はれる。
河西はすばらしいホステスで、多ぜいの客のどのグラスが空になつてゐるか、どの客がまだサラに首をつつこんで
ゐるかを、一瞬一瞬見分けて、配下の給仕たちに、ぬかりのないサービスを命ずるのである。ソ連はこんな手痛い、
よく行き届いた饗応にヘトヘトになつたのだつた。
しかしソ連のルイスカリ選手はすごかつた。この、金髪を無造作に束ねたクリクリした少女、大きな胸を突き出した
少女は、いつも赤い炎の矢のやうに飛んできて、強烈なボールを返した。
――日本が勝ち、選手たちが抱き合つて泣いてゐるのを見たとき、私の胸にもこみ上げるものがあつたが、
これは生れてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である。

三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」より
0478名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/11(木) 23:46:33.44ID:z3f51g2W
どうしても心の憂悶の晴れぬときは、むかしから酒にたよらずに映画を見るたちの私は、自分の周囲の現実を
しばしが間、完全に除去してくれるといふ作用を、映画のもつとも大きな作用と考へてきた。大スクリーンで
立体音響なら申し分がないがそれは形式上のこと、それで退屈な映画では何にもならぬ。(中略)これを一概に
「娯楽」といふ名で呼ぶのは当を得てゐない。私の映画に求めてゐるのは「忘我」であつて、娯楽といふ名で
括られるのは不本意である。私はただの一度も、映画で「目ざめさせて」もらつた経験もなく、又目ざめさせて
もらふために、映画館の闇の中へ入つてゆくといふ、ばからしい欲求を持つたこともないのである。
官能の助けを借りながら、知的探究をさせてもらふ、といふ、怠け者の欲張りが、いはゆる芸術映画の観客の
大半なのであらう。目に見えるものはいやでも官能に愬へ、しかも音が加はり、色彩が加はりすれば、どんな
知的な映画でも、その複合的効果を免かれることはできないのである。

三島由紀夫「忘我」より
0479名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/11(木) 23:47:42.84ID:z3f51g2W
そして忘我とはこれ又複雑な要素を含み、エロティシズムや恐怖といふ感覚的衝撃も十分忘我の材料になりうる
けれども(因みに、笑ひはたえず人を目ざめさせるから、忘我のたのしみには適しない)、知的なパズルも亦、
しばし自分の頭脳を他人のなかなか隅におけない頭脳の支配に委ねるといふ快感において、忘我のよすがになる
わけであるから、私が喜んで見る映画は、おのづから限られてくる。そしてこれらすべての条件を具備したものが、
他ならぬヒチコック映画なのであるが、今度の「トパーズ」を含めて、ヒチコックの近作に、往年の色艶が褪せて
来たことは淋しい。
美しい人間が出てくる、といふことも映画の与へる忘我の大切な要素であり、「トパーズ」にもやはりキューバの
地下組織の代表者として、目もあやな美人(カリン・ドール)が現はれ、その死までも華麗を極めてゐる。
美しい人間といふものは映画にしか出て来ない、といふのがわれわれの年齢の人間の、幼時から温めてきた信仰で
あつた。逆も真なりで、映画に出る人なら美しい人間に決つてゐた筈であつた。

三島由紀夫「忘我」より
0480名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/11(木) 23:48:29.53ID:z3f51g2W
ところが人間の肉体に対する信仰がどこかで崩れ、肉体の「偉大さ」が信じられなくなつてしまつた。これが
スター・システムの崩壊につながつたことは言ふまでもないが、美貌のみによつて偉大である、といふシンボル賦与の
役割を映画がすでに果さなくなつたことと照応してゐる。
その代りにタブーが取り去られ、「性」が映画の中央にしやしやり出てきて、どんな無気力な性を描いても、
性が主人公である映画が続出するやうになつた。現在氾濫してゐる二流映画の中で、私が感心したのはギリシアの
「猫の舌」ぐらゐのものであるが、面白いことには、性が前面に出てくればくるほど、スターは不要になり、
この面からもスター・システムの崩壊は推し進められてゐることである。
スターは性的シンボルであつたが、それは覆はれた性的シンボルであり、性の無名性の逆説であつた。

三島由紀夫「忘我」より
0481名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/11(木) 23:49:18.90ID:z3f51g2W
すなはち性的対象が一つで、こちらが不特定多数人だとすれば、たつた一つの性的対象に対してできるだけ多数の
不特定人が集まれば集まるほど、経済的効率は上るわけであるから、そのためには宣伝が必要になり、宣伝の
公共性がスターをいやが上にも有名にすると共に、性の無名性(性的独占の条件)はますます薄れ、人々は共有の
法則に従はざるをえなくなる。そこに神聖化が行はれ、幾多の処女伝説が発生した。しかしブルー・フィルムでは、
この事情は逆になる。俳優は無名であればあるほど、性的独占の対象として直接性を帯び、それはいかにも任意の
対象といふ風情をそなへ、観客と俳優は一対一で映像の性関係に入ることが容易になる。そのためには、公共性を
必然的に持つ宣伝は、すべてを阻害することになる。
未来の映画は、すべてブルー・フィルムになるであらう。そして公認されたブルー・フィルムの最上の媒体は、
ヴィデオ・カセットになるであらう。なぜならそれは映像の性的独占を可能にするからだ。

三島由紀夫「忘我」より
0482名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/11(木) 23:51:23.25ID:z3f51g2W
これはもう予期された結末であるが、それといふのも、映画は性を扱ふ時に圧倒的な効果を発揮するにもかかはらず、
劇場映画に要する厖大な制作費の条件は、性を無名性と個人的独占から遠ざけるやうにしか働らかないからである。
かういふことをうすうす感じてゐるからこそ、若い監督たちはあのやうな難解な映画を次々と作るのであらう。
どんな形而上学的主題も、或る巨大な性の影に包まれてゐるといふのが映画の本質であるのに、性を前面に扱へば
扱ふほど、かつてのやうなスターといふ存在のシンボル操作による、あの性の万能性・公共性・象徴性・神聖性は
失はれたのである。従つて、映画は或る巨大な性の影の庇護下にあらゆることを語りうる媒体であることを自ら
諦らめねばならず、一方では文学的演劇的な形而上学的主題へ逃げ、一方では芸術映画に特有な、汚ならしい
男女優による汚ならしい性的シーンの氾濫になつたのであらう。
かくも忘我から遠いものはないために、私は、これを見定めて、忘我を与へてくれさうな映画を見るとき以外に、
映画館へ足を運ばなくなつたのであつた。

三島由紀夫「忘我」より
0483名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/17(水) 10:03:23.91ID:dWJByakk
何がきらひと云つて、私は酒席で乱れる人間ほどきらひなものはない。酒の上だと云つて、無礼を働らいたり、
厭味を言つたり、自分の劣等感をあらはに出したり、又、劣等感や嫉妬を根にもつてゐるから、いよいよ威丈高な
嵩にかかつた物言ひをしたり、……何分日本の悪習慣で「酒の上のことだ」と大目に見たり、精神鍛練の道場だ
ぐらゐに思つたりしてゐるのが、私には一切やりきれない。酒の席でもつとも私の好きな話題は、そこにゐない
第三者の悪口であるが、世の中には、それをすぐ御本人のところへ伝へにゆく人間も多いから油断がならない。
私は何度もそんな目に会つてゐる。要は、酒席へ近づかぬことが一番である。酒が呑みたかつたら、別の職業の
人間を相手に呑むに限る。
何かにつけて私がきらひなのは、節度を知らぬ人間である。一寸気をゆるすと、膝にのぼつてくる、顔に手を
かける、頬つぺたを舐めてくる、そして愛されてゐると信じ切つてゐる犬のやうな人間である。女にはよく
こんなのがゐるが、男でもめづらしくはない。

三島由紀夫「私のきらひな人」より
0484名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/17(水) 10:04:11.62ID:dWJByakk
(中略)
私が好きなのは、私の尻尾を握つたとたんに、より以上の節度と礼譲を保ちうるやうな人である。さういふ人は、
人生のいかなることにかけても聰明な人だと思ふ。
親しくなればなるほど、遠慮と思ひやりは濃くなつてゆく、さういふ附合を私はしたいと思ふ。親しくなつた
とたんに、垣根を破つて飛び込んでくる人間はきらひである。
お世辞を言ふ人は、私はきらひではない。うるさい誠実より、洗練されたお世辞のはうが、いつも私の心に触れる。
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。
お節介な人間、お為ごかしを言ふ人間を私は嫌悪する。親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものが
あるものだが、お節介な人間は、善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。善意のすぎた人間を、いつも
私は避けて通るやうにしてゐる。私はあらゆる忠告といふものを、ありがたいと思つてきいたことがない人間である。

三島由紀夫「私のきらひな人」より
0485名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/17(水) 10:04:50.09ID:dWJByakk
どんなことがあつても、相手の心を傷つけてはならない、といふことが、唯一のモラルであるやうな附合を私は
愛するが、こんな人間が殿様になつたら、家来の諫言をきかぬ暗君になるにちがひない。人を傷つけまいと思ふのは、
自分が(見かけによらず)傷つき易いからでもあるが、世の中には、全然傷つかない人間もずいぶんゐることを
私は学んだ。さういふ人間に好かれたら、それこそえらいことになる。
……ここまできらひな人間を列挙してみると、それでは附合ふ人は一人もゐなくなりさうに思はれるが、世の中は
よくしたもので、私の身辺だつて、それほど淋しいとは云へない。荷風も、一時は無二の親友のやうに日記に
書いてゐる人間を、一年後には蛇蝎の如く描いてゐるが、それはあながち、荷風の人間観の浅薄さの証拠ではなく、
人間存在といふものが、固定された一個体といふよりも、お互ひに一瞬一瞬触れ合つて光り放つ、流動体に
他ならぬからであらう。好きな人間も、きらひな人間も、時と共に流れてゆくものである。

三島由紀夫「私のきらひな人」より
0486名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/08/17(水) 10:05:28.20ID:dWJByakk
とまれ、誰それがきらひ、と公言することは、ずいぶん傲慢な振舞である。男女関係ではふつうのことであり、
宿命的なことであるのに、社会の一般の人間関係では、いろいろな利害がからまつて、かうした好悪の念はひどく
抑圧されてゐるのがふつうである。
第一、それほど、あれもきらひ、これもきらひと言ひながら、言つてゐる手前はどうなんだ、と訊かれれば、
返事に窮してしまふ。多分たしかなことは、人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると
考へてよい、といふことである。私のやうな、いい人間をどうしてそんなにきらふのか、私にはさつぱりわからないが、
それも人の心で仕方がない。ニューヨークの或る町に住むきらはれ者がゐて、そいつは悪魔の如く忌み嫌はれ、
そいつがアパートから出てくると、近所の婆さん連がみんな道をよけて、十字を切つて見送るといふ男の話を
きいたことがあるが、きらはれ方もそこまで行けば痛快である。私も残る半生をかけて、きらはれ方の研究に
専念することにしよう。

三島由紀夫「私のきらひな人」より
0489名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/09/15(木) 12:22:42.29ID:vZUEU0G5
映画も芸術の一種と仮定すると、人間の芸術的感受性が、映画のおかげで低下するといふものでもないので、
むしろこのごろの若い人は、われわれが少年時代に、小説の耽溺に際して働らかせた分量の感受性を、映画に
向けてゐるとも云へるのであるから、十代のお客だつて、たとひ小学生のお客だつて、ジャリなどと呼んで
甘く見るべきではない。このあひだ「恋人たち」のカットに積極的に賛成したといはれる某映画批評家などより、
かういふジャリのはうが、よつぽどコンモン・センスに富んでゐる筈だ。

三島由紀夫「映画見るべからず」より
0490名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/09/26(月) 11:31:53.21ID:hV1aq3e6
0492名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/10/15(土) 09:38:03.52ID:ZfKPtZt3
サン・サーンスは、作曲家としてよりも薔薇作りとして有名だつたさうだが、私も小説家としてより、人斬りとして
有名になりたいものだと思つてゐる。

三島由紀夫「『人斬り』出演の記」より
0494名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/11/13(日) 11:19:21.90ID:LtQAeOhj
愛するといふことにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠の素人である。男は愛することにおいて、無器用で、
下手で、見当外れで、無神経、蛙が陸を走るやうに無恰好である。どうしても「愛する」コツといふものが
わからないし、要するに、どうしていいかわからないのである。先天的に「愛の劣等生」なのである。
そこへ行くと、女性は先天的に愛の天才である。どんなに愚かな身勝手な愛し方をする女でも、そこには何か
有無を言わせぬ力がある。男の「有無を言わせぬ力」といふのは多くは暴力だが、女の場合は純粋な精神力である。
どんなに金目当ての、不純な愛し方をしてゐる女でも、愛するといふことだけに女の精神力がひらめき出る。
非常に美しい若い女が、大金持の老人の恋人になつてゐるとき、人は打算的な愛だと推測したがるが、それは
まちがつてゐる。打算をとほしてさへ、愛の専門家は愛を紡ぎ出すことができるのだ。

三島由紀夫「愛するといふこと」
0495名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/11/28(月) 14:00:48.57ID:d9LQHgCI
0496名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/12/05(月) 22:11:34.65ID:oedM4gga
きのふの風 けふの風
恋の風 金の風
夢も涙も 吹きとばし
人でなしでも 人の子さ
からつ風野郎 あすも知れぬ命

ムショの風 シャバの風
恋の風 金の風
情しらずの ワナをかけ
惚れはさせるが 惚れはせぬ
からつ風野郎 あすも知れぬ命

ハジキの風 ドスの風
恋の風 金の風
独り笑ひの 口もとを
すぎる殺気の うそ寒さ
からつ風野郎 あすも知れぬ命

三島由紀夫「からつ風野郎」
0497名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/12/26(月) 15:02:19.53ID:LY7IySzM
´
0498名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/01/20(金) 11:20:45.64ID:RDu21UJe
0500名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/02/09(木) 23:38:45.00ID:6VAH6gWh
500
0501名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/02/27(月) 14:17:44.57ID:+/9l59J3
0502名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/03/10(土) 23:49:20.65ID:HUdqHY+M
保守
0504名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/05/06(日) 10:54:49.80ID:WRZp+hgu
人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的なカルマが決定する。

三島由紀夫
横尾忠則への言葉
0506名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/06/27(水) 03:37:57.44ID:xt3W8Arh


【 おかしなものを吸引・服用・使用すると中枢神経を刺激され後遺症が残る。 】

0507名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/06/27(水) 18:28:05.33ID:d49mCNhh

アナボリックステロイドは耐久性の運動競技や有酸素運動における能力の向上をもたらすものとして、
1960年代の初め頃から重量挙げの選手やボディビルダーらの間で注目を集め始めた。

【副作用】
・多毛症:顔、乳首の間、背中、肩、大腿の裏、臍下、殿部などといった、本来は無毛の部分への体毛の出現。
・精神的症状:鬱病的症状、妄想、気分変動の激化、パラノイア、苛立ち。
・行動変化:攻撃性や突発的な暴力衝動の発現。

0508名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/06/29(金) 19:59:43.63ID:aUCBPaXu

コイツ危ないぞ。

ttp://www.youtube.com/watch?v=QrlOpFP-Jk8

ttp://www.youtube.com/watch?v=jZsJQPxcA0Q

ttp://www.youtube.com/watch?v=_PYXrFh3bTk

0509名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/07/05(木) 05:44:06.63ID:JhDiBRGw


【検証されたし】

ttp://www.youtube.com/watch?v=sHGUKmbs_GA

ttp://www.youtube.com/watch?v=oeUxHf5A0Ag

0510反現代死jlだflskfヵlskd
垢版 |
2012/07/19(木) 19:37:54.70ID:VESLbHW5
三島由紀夫より反現代死だ!!!!111111111111111111
廃いゆー子 反現代死 殴り合い流血ライブ 七夕
http://www.youtube.com/watch?v=UHeoTK27wDM
0511名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/08/18(土) 14:25:59.18ID:XP4RNx1H
南方の貧困には、都会のみすぼらしい物ほしさうな貧困とちがつて、何かしら高貴なものがある。
南方の貧困には敗北のかはりにはじめからの放棄や忍従があり、とりもなほさず自然との
親和があるからだ。ここでは、高貴も貧困も、くさぐさのめづらしい果物の種類のやうに、たまたま
ちがふ味、ちがふ薫を放つ果物として、同じ資格で、太陽と海に捧げられてゐるやうに見えるのである。

ひつきりなしに通る市内電車の屋根には、夕影にはまだ遠いのに、鮮かなスパークの閃光が時折目に入る。
電車の窓から、乗客の女のふさふさした髪の項が見える。そのイタリー女がどこかへ電車で買物に行き、
かへつてくるころには私はもう機上の人なのである。それを思ふと、人間の生死も、ある地点における
在不在の、距離を延長したものにすぎないやうな気もする。

三島由紀夫「外遊日記」より
0512名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/10/01(月) 20:29:55.42ID:wrtgWGIm
0513名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2012/11/19(月) 19:14:13.02ID:kdt+A3E9
俳優の自意識はつねに不安にみちてゐる。
だから俳優は酒を飲み、スピード運転をし、女とこつそりつきあつて、一人になると不安でとても
たまらないから、友だちをつれていつしよに飲んで歩いて、ますます孤独になる。
小説家にはそんな孤独がないから、なるたけ一人でゐたい。それは、小説家といふものは、多勢と
つきあつてゐなくても、ここにかうやつてゐるのは自分にきまつてゐるのを、知つてゐるからなのだ。
逆の意味で、小説家はそのことに飽きる。いつも茶の間に坐つてゐるぼくが、ぼくであるといふことは、
ちよつとたへられないことである。
逆説的といはれるかもしれないが、ぼくは昔から、ぼくの知らない世界、ぼくと逆の世界があるのでは
ないかと考へてゐた。物理学でいふ反陽子の世界みたいなものに、いつも憧れてゐた。ここにゐるぼくが
ぼくではなくて、スクリーンの中にゐるのがぼくであるやうな事態が起つたら、愉快ではないか。

三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より
0514名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/01/22(火) 19:33:41.88ID:LpPGh2Tu
0517名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/03/26(火) 01:40:29.60ID:9Qs+CyAf
エホバの証人→虐待教
創価→犬作ファンクラブ
幸福の科学→オカルト
パワーストーン→ただの石ころ
パワースポット→気のせい
自分探し→探してどうする
自分磨き→虚栄心の言い換え 努力は認める
ヨガ、ピラティス→ただの体操
0519名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/05/03(金) 14:15:48.80ID:78aorsxz
三島って軍艦マーチの指揮も振っていたんだってな
読売交響楽団にて


[ ● ]
0520名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/05/03(金) 15:36:23.20ID:78aorsxz
あ、
読売日本交響楽団ね

…さあて、僕はオブジェクトになりたいなあ…っと
0525名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:SePkYNEn
市ヶ谷自衛隊総監部で三島由紀夫の介錯した後に
自らも切腹し果てた楯の会・森田必勝(22)の
同棲相手(許婚)は”やる気、元気”の井脇ノブ子
三島由紀夫は決行2日前に”楯の会”会員4人(森田必勝、小賀正義、
小川正洋、古賀浩靖)とパレスホテルで最終打ち合わせをした。
三島「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」
後の井脇ノブ子である。
今でも井脇は森田必勝の咽喉仏が入ったペンダントを
身につけている
0526名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:1DY7ZWg0
ネトウヨとは・・・
人格に問題があるため社会に適応できない人種
そのため周囲に対して自分の存在を誇示するためのステータスが一切ない
唯一の拠り所が「自分は日本人」ということのみである為
ネット上で在日韓国人・朝鮮人を叩いてわずかな優越感を得ることでアイデンティティを保っている
また昨今では嫌韓流思考が顕著であり、またネトウヨ自身が社会と接する機会が少ないこともあり、
「韓流ブームは全て嘘」と本気で信じている。
その思考が右翼にも似ている為、ネトウヨと呼称される

@社会的地位:下層
A経済力:低収入、または無収入。
 高い収入を得る人間に対しては、例え在日以外にも異様なまでの敵対心を持つ。例:公務員叩き。東電叩き。ステマ叩き。障害者叩き。
B対人関係:不得意。
 匿名の掲示板以外では何も話すことは出来ない。その分ネットには莫大なエネルギーと時間を費やす。
0527名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:r5Bsve0Y
0531名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/02/18(火) 14:47:12.21ID:dE2L5RSQ
かもめんたるに似てる
レスを投稿する


ニューススポーツなんでも実況