タヴィストック研究所は、人間を「操作する」というフロイト主義路線にそって行動主義科学における先駆的研究を行ったが、
このために財団イデオロギーの世界的中枢としてのタヴィストック研究所の地位は揺るぎないものとなった。

タヴィストック研究所の組織網は、今やロンドンのサセックス大学から合衆国へと伸び、スタンフォード研究所〔1965年設立〕やエサレン研究所〔1962年設立〕、
MIT、ハドソン研究所を網羅、国務省職員の訓練機関となっているジョージタウン大学戦略国際研究センターや合衆国空軍情報部、そしてランド研究所やマイター財団にまで広がっている。
財団に働く職員たちは、以上挙げたようなタヴィストックの支配下にある研究施設で、一度もしくはそれ以上の「教化」〔洗脳〕を受けるよう求められる。

そして、モンペルラン協会や三極委員会(TC)、ディッチレー財団、ローマクラブなどの秘密結社網がタヴィストックの組織網に指示を伝えるためのパイプ役を果たす。
タヴィストック研究所は大衆洗脳技法を開発した。
これが初めて実験的に使用されたのは、朝鮮戦争におけるアメリカ人捕虜に対してだった。

この大衆洗脳技法を群衆操作方法として用いるさまざまな実験がアメリカ国民に対して広範囲に行われてきた。
このような実験はトポロジー心理学(位相心理学)を通して個人の行動を少しずつ変えていくことにより、人間の自由をこっそりと目立たずに不法に踏みにじる行為である。

1932年、ドイツからの難民クルト・レディン〔1890〜1947年。心理学者、1927年ベルリン大学教員外教授、1932年教授、1935年アイオワ大学教授兼児童愛育研究所所員、
1945年MITグループ・ダイナミックス研究室主任〕がタヴィストック研究所の指導者となった。

クルト・レディンは1933年「難民」として合衆国にやってきた。
以後ドッとやってくることになる潜入工作員たちの第一波であった。
そしてレヴィンはハーバード心理学診療所を設立した。
この機関がアメリカ国民がドイツに反感を持つように仕向け、合衆国を第二次世界大戦へと巻き込む情報宣伝工作のシナリオを作成したのである。

1938年、ルーズヴェルトはチャーチルと秘密協定を結んだ。
この協定は実質的に合衆国の主権を英国に譲り渡すものであった。
というのも、この協定によって、英国の特殊作戦執行部(SOE)が合衆国の政策を思いどおりに支配してよいという合意がなされたからである。

この合意内容を実行するためにルーズヴェルトは、SOEとSIS(秘密情報部)の指導のもとにOSS(戦略事務局。後のGHQで、いまのCIA)を設立するに先だって、
ドノヴァンをロンドンに派遣し〔1940年6月〕、教化してもらうことにしたのである。
OSSの計画は常に、その後のCIAもなんら変わりはないが、徹頭徹尾、タヴィストック研究所が作成した指針にもとづいていたのである。