端的に言えば、五中卒業生の多数派は瑞陵に愛着がなかったのです

旧愛商講堂の感喜堂の保存運動など思いもよらない
ソ連のスパイの疑いもある杉原千畝とか
五中-瑞陵60周年記念誌に一言も触れられない、登場すらしないw
江戸川乱歩がOBであることは古くから鼻が高かったようですが、
逆に愛知県民、名古屋市民の方が冷淡だった

逆説的に、一中や市一の同窓会は、
かなり遅くまで旭丘や菊里とは独立して同窓会活動をしていたのに対して、
(しかし後進の旭丘・菊里への支援は非常に手厚いものがありました)
明倫(※)や五中の同窓会は、早い段階で明和や瑞陵の同窓会と合併しましたが、
これは後者の同窓会活動への熱意が低いことの表れでした

(※)明和は校地・校風・校歌・同窓会運営などあらゆる面で、
明倫中よりも県一女の影響を強く受けたため