>>47の続き) 大野一英 愛知一中物語(下) P241-242 (昭和53年、中日新聞本社)

【OB席】一中と旭丘を結ぶパイプ役 第71回(昭和23年)卒業 堀田逞二(47)

(抜粋)

「われわれは最も混乱した時代ですなあ。すでに一年前あたりから中学受験には学区制が
採用されていて、一中の門は少し広くなっていた。私らの小学校でも二、三年前までは
二、三番までしか受けさせて貰えなかったのに、十番以内なら受けられましたよ。一中のレベルは
少し落ちたかも知れませんね。その上、一年生のときから高蔵寺の弾薬庫へ行ったり、
藤岡村の農場へ行ったり、小牧の飛行機づくりに狩り出されたりでしょう。二年生になれば
鳥居松の工廠へ毎日、中央線に乗って通い、三年で終戦。勉強はしていませんねえ」

Web版「五中−瑞陵60周年記念誌」 第3部 終戦から現在まで
ttp://www.bekkoame.ne.jp/i/zuiryokai/60kinen3.htm

(抜粋) 2. 最後の五中生 <八高入学率1位>

「熱田中学は八高への進学が一番いい学校だと聞いてきました」岐阜県から戦後しばらくして転校して
きた生徒が、ある先生に語った。22、3年は上級学校、なかでも第八高等学校への進学率がよく、
一中、明倫中をしのいでいた。いまでいえば名大への入学者がもっとも多いということになる。

戦前の八高入学者は一中約70人、熱田、明倫各30人というところだった。それが戦後しばらくは
熱田55人、一中40人、明倫30人と順位が入れかわっていた。(ある先生の記憶よると熱田48人、
一中41人、明倫39人である)勉強のできなかった戦争中と、教育界に混乱が起きた時期にあって、
五中生がいち早く勉強と取り組んだ結果である。

熱田、瑞穂という比較的戦災の少なかった地区に住む生徒が多かったことも影響しているのだろう。
陸士、海兵など軍関係学校へ進んだ生徒が復学し、前にもましたファイトで勉強に向かったことも
原因の一つだ。もっとも一部には八高へ無試験編入もあった。しかし、混乱の中にありながらも、
熱心に授業に当った先生の努力が大きく物のをいったことを忘れてはならない。