私は比較的規模の大きい某大教会に関与することがあり、知り合いも何人かいる。
そこで感じることは同じ苗字の人が多いということである。
大教会の役員、また主要な直属教会といわれる親藩、譜代にあたる教会は、
その大教会の成立に歴史的に深く関わってきたファミリーである。
天理時報を見ても教団本部の人間として登場するのは見慣れた苗字の人である。
兄弟や親族と思われる人が天理教内部では数多くいる。
また同じことは各教会単位でもある。
あの教会と、この教会の人は親族であったりする。
これは「理」という世襲制を採用している際には仕方のないことだと思う。
またそういった形を踏襲することがここまで天理教が歴史的に存在してきた
理由なのであろう。しかし歴史は終わる。
藤原氏も豊臣家も、日本歴史至上最大のファミリーを形成した徳川家も
歴史的使命は終了した。ということはどういうことなのか。
世襲制は最終的に終わるということでもあるが、
もっと本質的なことは世襲制は“周囲の人間”に飽きられるということである。
私の身近な例を示すと、最近ある教会の会長さんが亡くなられた。