親である会長達とのコミュニケーション不全というのは、
私が会長達と話したときに感じる不全感と全く同じであると考える。
なぜだか分からないが、
会長達は多くの確率で「自分が絶対的に正しい」と疑いなく思っている。
だから元々コミュニケーションなど成立しない。信仰とは自ら
追い求め続ける内的作業というのが通常の理解だと思うが、天理教の会長達はなぜか
「俺が正しい信仰を教えてやる。俺の話を聞け」という絶対的姿勢を崩さない。
談じ合いと言いつつ「違う。教祖(おやさま)は実はこう言っているのだ」
と神の権力を勘違いした自己解釈を展開することが多々ある。
多くの会長達と話してみれば、
そこに感謝、慎み、助け合いなんてないことはすぐわかる。
それらは一部の人間というよりも
一貫した体質であると大教会長や本部員のセンセイたちの話を聞いて思う。
(天理教が発行する媒体などを見れば、自己の発言に正当性を与えるために「神様は〜
」と自分が神にでもなったかのように教義を継ぎ接ぎしたものばかりで辟易する)