おっしゃられる点について私なりにお答えします。
宗教には個人と個人とを接着させ、
個人とコミュニティを接着させるバインド機能が重要な機能ですが、
それはこれから信仰を始める人や信仰を深める人の主体性(主観的な信仰体験)
によって担保されるものだと思います。
しかし、そのバインド機能を他者の力を奪う(弱者にさせる)ことで達成することは
健康的ではありません。それは信仰的自立ではなく依存です。
また信仰の必要性を弱者であることで確保することは、天理教は天理教人によって、
恣意的に作られた弱者のためだけの教えになります。
そのような選択された信仰は「だめの教え(最後の教え)」
ということではないと以前教えていただきました。