兄弟の順番に関係なく優秀な子に後を継がせることになると、いずれお家騒動に発展し、徳川家自体が割れてしまう可能性があると、家康は考えたのだろうと思います。
そのようなリスクを考えたとき、やはり神輿は自分で動く神輿ではなく、担がれるだけの神輿のままでよい。有能な人間である必要はないということに行き着きます。
家康はこうして孫やその下の代まで、内紛が起きることをあらかじめ避け、ある種の平和的な解決ができるように取り決めたのです。その結果、徳川将軍家は15代の長きにわたって、存続することになりました。