気になるのはこう言う無意味な些事拘泥系がその性質を聖書に書かれるくらい忌まわしい悪であるとみなされてること

旧約聖書:イザヤ書:28章: 9節 「彼はだれに知識を教えようとするのか。だれにおとずれを説きあかそうとするのか。乳をやめ、乳ぶさを離れた者にするのだろうか。

旧約聖書:イザヤ書:28章: 10節 それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」。

旧約聖書:イザヤ書:28章: 11節 否、むしろ主は異国のくちびると、異国の舌とをもってこの民に語られる。

旧約聖書:イザヤ書:28章: 12節 主はさきに彼らに言われた、「これが安息だ、疲れた者に安息を与えよ。これが休息だ」と。しかし彼らは聞こうとはしなかった。

旧約聖書:イザヤ書:28章: 13節 それゆえ、主の言葉は彼らに、教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則、ここにも少し、そこにも少しとなる。これは彼らが行って、うしろに倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられるためである。


ユダヤ戦争以前のファリサイ派がまさにこれで

忌まわしいのはこいつらは人に命令はするが自分はその人に言う言いつけを守りもしなかったってことだ

これが神の目に最も悪

ヤンキー=悪じゃなくてな