文治年間(1185年-1190年)、新田神社筆頭職の執印職に守護島津氏と祖を同じとする鹿児島郡司の惟宗康友が就き、康友の子孫が執印氏を名乗り(元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が新田宮執印職の当知行を安堵)明治に至るまで、代々俗体で世襲することになる。

蒙古襲来(元寇)で、鎌倉幕府は各国の一宮と国分寺に蒙古調伏の祈祷を命じ、各国の守護に一宮への剣、神馬の奉納を命じた。薩摩国では枚聞神社と新田神社の間で一宮相論が起こっていたため、島津氏(忠宗)は、一宮の決定とは無関係としながらも 剣、神馬を新田神社(同族の執印氏側)に奉納する。
これは事実上一宮は新田神社と認める行為で、一宮相論は決着し、古来から一宮であった枚聞神社から新田神社へと一宮が移ることになるが、最終決定がされておらず、薩摩国に一宮が2つ存在することになる。また、国分寺留守職、天満宮別当職に執印氏の分流の国分氏が就き、新田神社は薩摩国国分寺とも深い繋がりを持つ事になる。
武神である八幡神を祀っていたことから、当地を支配していた島津氏に尊崇を受け、暦応4年(1341年)年記のある『島津家文書』に依ればこの新田神社が「薩摩国一宮」として挙げられている。しかし現代においては執印氏の強引な手法も詳らかとなり、古来から一宮とされてきた枚聞神社が正しく薩摩国一宮であるとの意見も多く散見される。