ノアの子ヤペテには七人の息子がいた。最初、彼らはタウロス山(トルコ南部のトーラス山脈中の最高峰、三七三七メートル)とアマノス山(タウロス山の近く)に居住し、ついでアシアに進出してタナイス川
ロシア、ヨーロッパの中部から南流してアゾフ海に注ぐドン川。古代、この川がアシアとエウローペー(ヨーロッパ)の
境をつくっていた)にいたるまでの土地に住んだが、エウローペーでは、彼らがたまたま手に入れたガデイラ(スペイン
南西部、大西洋に面したカディス湾の港町カディス)の地にまで住むにいたった。そして、それ以前にはだれもこれらの
土地に居住してい
なかったので、彼らは自分たちの名を民族名とした。  一二三そこで、今日ギリシア人がガラテア人と呼んでいる者たちは、
そのときゴメルの子らと名づけられたが、それはゴメルが創建者だったからである。  マゴグはマゴグ人を植民させた。
その民族名は彼の名にちなんでいるが、彼らは現在ギリシア人によりスキュタイ人と呼ばれている。  一二四ヤペテの他の二人の息子
たち、すなわちマダイからマダイ人──ギリシア人たちはメードイと呼んでいる──が生まれ、ヤワンからイオニアと
全ギリシア人が生まれた。  トバルは、現在イベレスと呼ばれているトバル人を植民させた。  一二五メセクが植民し
たメセク人は、現在カッパドキア人と呼ばれているが、彼らにつけられた古代の名の痕跡は残っている。というのも、彼
らの所には今なおマザカと呼ばれる町(カッパドキアが紀元後一七年ティベリウス帝によってローマの属州にされたとき、
カイサレイアと改名)があるが、専門家にはその名がかつてその民族全体に冠せられてい」