ヒロシマ・ナガサキの悲劇を両方体験した方もおられるようです。

> 広島の被爆に関する相変わらずの大本営発表に憤慨し、広島の実情を伝え
> なければと被爆した身体で旧知の長崎市長を頼って9日の朝に長崎に到着
> し、そこで再被爆した、広島の地方新聞社の社長だか何かの役職について
> いたという人物がいなかったっけ?

> 別人かも知れないけど、
> 昔、二重被爆した人を広島のローカルニュースで見た。
> そのときは無傷だったけど、昭和30年に職場で倒れて以来、寝たきり。
> 天井から撮り下ろすようなカメラアングルだった。
> 奥さんが平和公園で働いていた。

ttp://www.bekkoame.ne.jp/~hujino/no26/26yamasaki.html
の冒頭
>  ナース・キャップは、わたしの宝物
>     二重被爆元看護婦の車中談      山崎 優
> 1996年4月2日夕方。JR芸備線の列車内。「芸備線を走ると、あの日の事を思い出すんよ」。列車が広島駅を
> 発車した途端、偶々同席した郷土史会で顔見知りの婦人が呟いた。この呟きが私の心にひっかかった。
> 「それでーーー」と、水を向けた。婦人は堰を切ったように語り始めた。話しは、私が下車する迄のまる一時間に及んだ。  
>  話しを総合すると、この婦人は昭和十九年から二十年の敗戦後にかけて、日赤の看護婦として長崎県の大村海軍
> 病院て勤務した。その間に出張中の広島で被爆。帰任した大村海軍病院で長崎の被爆者の救護活動に従事した。
>  いわゆる二重被爆と言う数奇にして、過酷な体験の持ち主だったのだ。