■築山殿と信康殺害を望んでいたのは、信長ではなく家康自身だった?!

 問題は、信長に命じられたからといって、なぜ1ヶ月にも満たないうちに二人の殺害を家康は強行してしまったのか?という点である。いかに戦国の世とはいえ、我が妻、我が子を自らの手で殺すことなど非情。殺害に至らぬよう、何らかの手立てを施すこともできたはずである。それにもかかわらず、言われるがまま早々と実行に移してしまったのはなぜか?

 考えられることは二つ。一つは、理不尽な信長を恐れて、何も細工ができぬまま、断腸の思いながらも実行に移してしまったというもの。一般的には、そう見られることが多いようである。しかし、実はもう一つの見方の方が、史実ではなかったかと思えてならないのだ。

 それが、信長が二人の殺害を命じたのではなく、「家康自身の判断で二人を死に追いやった」というものである。もともと家康が、築山殿ばかりか信康の排除を目論んでいたという考え方だ。

■「築山殿の祟り」により岡崎で疫病が流行

 この頃の家康は、正室である築山殿のほか、奥女中だった於万の方(小督局)を側室として結城秀康を生ませていた。さらにお愛の方(西郷局)に秀忠を生ませるなど、次々と側室を迎え入れては後継者を誕生させていた。

 そもそも、夫を蔑むような態度に終始する築山殿に未練などなく、その息子・信康さえ、重臣の諫言にも耳を貸さず、父である家康をも軽んじるところがあった。家康はこれを忌々しく思っていたのだ。二人がいなくなったとしても、家康には愛しい側室や、跡を継がせるべき後継者に不自由していなかった。そのことも考慮しておくべきだろう。

 ともあれ築山殿は、息子の助命のため(護送のためとの説も)に岡崎城から浜松城へと向かう途上、家康臣下の野中重政に槍で刺されて絶命(諸説あり)。その子・信康も、二俣城幽閉の後、父・家康に命じられて切腹している。母子共々、家康に愛されることなく、無残にも死に追いやられたのである。
もちろん、築山殿が怨霊となって祟りを為すと恐れられたことはいうまでもない。

 彼女の死後、岡崎で疫病がまん延して多数の死者を出したこと、さらには岡崎城に不審火が出たことまで築山殿の怨霊の仕業と見られたのだ。もちろん、その真偽のほどは定かではない。それでも、家康が妻子二人を殺害したことは事実。これを軽んじるべきではないだろう。

※画像:PIXTA

藤井勝彦

【関連記事】
徳川家康が築山殿・信康の処刑を決断したのは徳川家臣団のため⁉
https://www.rekishijin.com/28583?utm
徳川家康の嫡男・松平信康と正室・築山殿の死にまつわる謎が残る3つの通説
https://www.rekishijin.com/27983?utm
悲惨な死に方をした柴田勝家は、秀吉を恨んだのか?【命日・6月14日】
https://www.rekishijin.com/28233?utm
「長篠の戦い」のスゴい伝令役は、鳥居強右衛門だけじゃない!
https://www.rekishijin.com/28056?utm
1500人が処分された‟大奥最大“のスキャンダル「絵島生島事件」の真実とは?
https://www.rekishijin.com/28071
最終更新:6/27(火) 17:27
歴史人