田原坂は明治10年(1877年)に起きた西南戦争最大の激戦地である。熊本城攻略に失敗した薩摩軍は、政府軍の熊本救援を防ぐために北部の田原坂を防衛戦として布陣する。そして政府軍もその約300mほどの距離を突破すべく、3月4日より20日までの17日間死闘を繰り広げた。

政府軍がこの攻防で消費した弾丸が1日当たり32万発と言われ、日露戦争最大の旅順攻略時の30万発を上回る。そのために「かち合い弾」と呼ばれる、空中で弾丸同士がぶつかって潰れた状態のものが多数残されている。またこの期間の政府軍の戦死者数は、7ヶ月の戦いでの戦死者の4分の1を越えるものである。いかにこの戦いが激しいものであったかを示すものである。