普通に考えて魂の本来の能力はみな平等なのに
特定の何かをありがたがる行為は自分より優れた存在をありがたがることになる
もう一度言うが、平等な魂なのに上下を作るのは、悟りを得た釈迦の視点だとひどく奇妙に映るし、同じ魂にそんな事されたくないに決まっている
偶像崇拝を形式にしてそれが引き継がれ未来までずっと奴隷になりたがる魂が自分に頭を伏せる光景を想像して釈迦が嫌がらないわけがない
真に必要なのは全知全能と創造神の権能を我々魂も持ち合わせているということを自覚することであって、自らにそんな能力はないと思い込み奴隷になりたがることではない