449では「シカテニギル」を「シカトテニギル」との記述ミスではないかと考察したが
そもそも二三三二二の暗号をなす重要な部分であるのに
そのようなミスが発生するとは考え辛いと捉えたほうが自然である
だとすれば「イシヤトシカテニギル」という一見不自然に見える文章にこそ
真意=神意が込められていると考えられるのではないだろうか
以上のことから考えても「石屋と鹿手握る」の解釈は有り得るのではないか