また比叡山延暦寺焼き討ちでも山で8000人以上が殺され
比叡山延暦寺の麓の関連集落で2万人以上が殺されていた歴史だったし
こちらも昭和の発掘調査で夥しい数の焼けてたり鉄砲傷が残った人骨が発見され
公式発表で少なくとも山で8000人以上で麓の関連集落で二万人以上の死者数
というのは決して誇張では無くむしろもっと多い可能性が高いとなっていた記憶

比叡山延暦寺は位置が記憶と違うけどこれは今はおいておいて

比叡山延暦寺の焼きうちに関しても
石山合戦と同様に当時の織田軍の数が記憶よりも大きく増えていて
逆に延暦寺側の僧兵の数が著しく減っており
麓の延暦寺関連集落は情勢不利とみて山からの指示に従わず
早いうちに信長への敵対をやめていた歴史になっているから
織田軍はそこまで苛烈なる殺戮をする必要が無くなったし
変化前はあくまでも当時の街の噂とされ
多くは織田軍が流布したイメージダウンを狙った奸計による偽証説が有力と言われた
延暦寺の僧侶僧兵の男色行為や闇金行為と人身売買への関与の事実が
信長台頭以前の朝廷や幕府の役人からも苦言として書き残されていたくらいに
当時の京の都で半ば公然の事実扱いだったに変わっており
比叡山延暦寺僧侶僧兵の堕落ぶりは京の一般庶民の記録からも散見されている
延暦寺への同情や延暦寺への尊敬が大きく減っていて諸大名からの支援が激減し
地方の天台宗寺院も記憶より比叡山延暦寺への支援を出し渋ったりしていて
信長の焼き討ち前既に山の施設が崩壊しており大勢が立て篭もれず
そこまで激しく抵抗出来なかったのも時間の面で焼き討ち規模の縮小を招き
結果的に死者数の減少に繋がっていると思われる