織田信長の石山本願寺攻めでは石山本願寺側に数万人の死者が出ていた記憶
長島一向一揆では4万人を殺戮し石山合戦でも同等かそれ以上を殺戮しており
後の考古学的な発掘調査でも大坂の陣での豊臣方の死者と思われる人骨が発見されたよりも更に下側の地層から夥しい数の焼け焦げて
鉄砲傷や刀傷が残る人骨が発掘され
下手をすると7〜8万人を殺戮していたかも知れないと発表されていた記憶

今調べると織田軍は記憶よりも兵の数が多いのに
一向宗の側は大きく人数が減っているし
石山合戦で一揆側の数千人が死亡した様だが
一向宗側の死者が少なくとも数万人以上で十万に迫る
(本願寺側が残した記録による)
という凄惨な殺戮は行われ無かったという事に変わっている
織田軍の数が増えて全体的に余裕が出た事と
そもそも一向宗の信徒数が記憶と比較して激減した事が
虐殺が回避された歴史に変わった理由と思われる