宇宙根源力としての業である。それが自己をもふくみ、自己をも越えているという点では自己独りでは如何とも
しがたい超越的力を持って人間をコントロールする。日本において言われた宿世の縁といわれた場合がこれである。
宿世の縁は、今の自分にはどうにもならなかった過去世的縁であり、現在を規制する必然性である。
日本で言えば源氏物語に現れる前世の縁という思想がそれであろう。宿世の因なりと諦観する源氏の姿が叙述されている。
「いかなる昔の契りにかありけん」と嘆いたり、「何人ならむ。その人と聞えもなくて、
かう思し歎かすばかりなりけん。宿世のたかさ」と言って、前世の因の尊さに感心したりしている。
「さきの世のちぎり知らるる身の憂さに行末かねてたのみがたさよ」
業は、この宇宙的根源力の必然性の直感、直覚、第六感、霊感であるが、我々人間は今日の業による明日への希望を懐く。
それは我々に、人間に、残されている自由の自覚である。思とは人間に残された意志の自由の義である。