645年(皇極4年)に「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ)、「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)らによって「蘇我入鹿」(そがのいるか)を暗殺して蘇我氏を滅亡させた「乙巳の変」(いっしのへん)。これを契機として、「皇極天皇」(こうぎょくてんのう)に代わって「孝徳天皇」(こうとくてんのう)が即位して発足した「倭」(わ:現在の日本)の新政府では、中大兄皇子らを中心として「大化の改新」(たいかのかいしん)が推し進められていました。中央集権的政治への構造改革が行なわれている最中だった663年(天智2年)、わが国初の対外戦争が勃発します。それが「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)です。「唐」(とう)・「新羅」(しらぎ)連合軍によって滅ぼされた「百済」(くだら)の遺臣「鬼室福信」(きしつふくしん)から救援要請を受けた倭の「斉明天皇」(さいめいてんのう)は、出征を決断。朝鮮半島の南「白村江」で唐・新羅連合軍と戦いましたが、一敗地にまみれました。