人は自分の理解できない出来事が起こった時、それらを無理矢理自分の知識で理解しようとする。

考えるとはそうゆう事ではない。理解しようと学び、答えをきちんと探し出すことだ。
でも、悲しいかな。人は自分の答えしか見えない。

例えば君らの信頼する人が目の前で弱者に施しをしたなら
君らはそれを素敵だと称賛するだろう。
しかし、君らの嫌う人が弱者に優しくしたならば
売名行為と罵るだろう。

私の言葉の真意は私にしかわからない。それでも、君らは自分がこうだと思った答え以外受け入れないのだろう。
自らの作り出した虚像で満たされ納得し、私がいくら話をしても自分たちが導き出した答えと同じものしか受け入れないのだろう。

それを、本当に悲しく思う。きっと君らは私のこの考え方も、私の導き出した答えにすぎず自分たちはそんなことないと反論するだろう。
私、別に誰かを陥れたかったわけではないし。信者を作りたかったわけでもない。

ただ、君らに可能性はあるのか確かめたかっただけだ。
その可能性とは何かを私は教えない。