何となくカーテンを開けたとたんに、物凄い違和感を覚えました。

お稲荷さんが、キレイになっていました。

草は刈り取られ、ブロック塀の苔も落とされて、まるで作りたてのコンクリートのようでした。

年に一回の催しの時でも、ここまできれいに掃除されていたのは見たことがありません。

また隣の草ボーボーの空き地の存在も相まって、荒れ地に突如現れた神域のような神々しさでした。

やればできるじゃねーか地域住民と思いはしたものの、何せ6月初夏の候。

この日だけ全力出しても、しばらく経てばすぐに元の草むらなどと、捻くれた思考で過ごした1週間後の午前。

なんとお稲荷さんは、一層その輝きを増していました。

鳥居の剥げた塗装は、美しい朱色に塗り直され、祠も白と朱色の輝かんばかりの出で立ちに。

自分もその一員という事をすっかり忘れた私は、地域住民め、ついに自治会の予算で業者を雇いやがった。などとまた捻くれた考えをうかべておりました。

勝手なもので、こうなると稲荷さんに行ってみたくて、いても立ってもいられず、サンダルを履いて出ていきました。

正面に立ったとき、心の汚れた自分がその聖域に侵入する事を一瞬躊躇してしまった気がするほどの美しさで、それはもはや京都伏見稲荷大社の縮小版ではないかとすら思えました。

梅雨時期のひとときの晴れ間、ここだけは何となく心地良く、替えられたばかりのお榊を揺らす風はとても涼しいのです。

祠に居るのは、怪談話で恐怖の対象にされる、不気味なお稲荷さんなどではなく、正一位稲荷大明神、まさしく神おわす処と姿を変えていました。