思えば、少年時代の私には“才”があった。
当時の私はその才を、無限に湧き続けるものと疑いもなく認識していた。
この根拠の無い不遜さが、私から努力や忍耐といった物を根こそぎ奪ってしまったのだ。
もし才がなければ、それを補うべく懸命に励むのだろう。そういった者が見せる鬼気迫るかのような必死さを、私は未だ持てずにいる。
才のないものが生み出した努力と忍耐が、才を作り出し、その才をも努力と忍耐を持って磨いていくのに対し、私は才を生まれ持ったが故に、それを磨く術を知らず、とうとう才は消え、不遜だけが残ってしまった。

 それから私は、更にたちの悪いことに、自らの才が最早過去の遺物であったことを認めず、そのことを隠す方法を見つけてしまったのだ。
それは、何もしないことである。自分はやればできる人間ではあるが、何か気分が乗らないとか楽しくないといった理由の為に、本気で取り組んでいない。こういった姿勢でいることで、私は自らの才を保とうとしているのだ。
怖かったのだ。これまで才のある人間を演じ続けてきた自分が、今更なりふり構わずなにかに打ち込み、それで結果が得られなかったらと思うと、恐ろしかったのだ。