例えば、10人の人と共に、1つの命題を考えるとき。

必要な人材って、どういう人であるか?
こたえ→しょうとくたいしのようなひと。

ようするに、10にん、の考えを、すべて開陳してもらい、その各人の頭の
中にある思想を、例えば、ホワイトボードに、次々と、絵で表していく。という
ような作業。
その絵をつなぎあわせて、あるいは、一部を、変形したり、あるいは、妥協したり、
必要に応じて、全員の同意の下で、一部を消したりして、総合的な基礎となる絵を
つくる。
それを議事録として、全員にくばり、共有し、そして、その共有の中からでてくる、
各人の共通の思想を、抽出する。
こういう、人の頭の中にある思想を、具体的に、具現化し、まとめあげ、
瞬時に、それをホワイトボードに書き、瞬時に共通思想を抽出する。
そういう、全体が、耳のような存在。耳と手が連動し、目は、つねに、ホワイトボードに
向いている。絵を描くのに使う。
背中で、多くの意見のみだれとぶのを聞き、そして、見分ける。
その繊細な受容性。そういう人物が必要。
私は、この技術を、ずーっと磨いてきた。実践してきたのですが。
だから、己(おのれ)というのは、せなかの向こうにある、多数と、実は
おなじ、であると、いう境地が、実は真実であることを知る者なのです。