現代的とは言いがたいA君の対処の結果、A君の家族は遠くに引っ越してしまった。
高校生だった俺が知ることのできる噂話はそう多くは無かったけれど、幸せとは呼べない結末だったことだけは確かだ。
町を遠く離れたせいか、左耳を切り落としたせいか、もう囁き声が聞こえなくなったことだけは小学生の弟づてに知ることができた。
A君の両親が離婚したことも知った。差出人の苗字が、たぶん母方の姓に変わってた。

「死ねしね様」の正体について詳しく知ろうとすることは、
神主だか住職だか分からないオラが村の神仏習合な爺ちゃんに止められた。
お寺の横に無人の神社があって、明治時代から簡単な管理だけを任されていたらしい。
社会科の教科書で習う、神仏分離政策で、土地を半分にするという、とても分かりやすい対応だったそうな。

「死ねしね様」は、簡単に言えば祟り神の一種だ。
悪意をもって人間を傷つけにくるわけではないのだけれど、
接触を持つこと自体が有害、そういうモノが世の中には多々あるらしい。
幽霊、妖怪、悪霊だのに関わらず、ヤクザに麻薬、いくらでも世の中にはある。
だから、触らぬ神に祟りなし、厄介ごとに首を突っ込むな、そういうことだと諭された。
どこかの山に籠ってひたすらに修行し、生涯を掛けて挑むだけの覚悟が無いなら、やめとけ、と普通に言われた。

そういうわけで、「死ねしね様」は、いまだに元気している。
時間が過ぎて、もう古くなったニュータウンの人達は、いまだになにか、おかしい。
「ちね」でも、「死ね」でもない、どんな発音を耳にしているのかは、たまに気になる。
でも、絶対に知りたくはないとも思う。