食い下がり気味に玄関先で押し問答をしてると、A君の叫び声が聞こえた。
「あー!!」とか、「わー!!」とか、とにかく大きな音を出そうとしている必死の叫び声だ。
叫び声がしてしまって、A君のお母さんが、とても大きなため息をこぼしたのを覚えている。
大人になって理解したけれど、そんな息子の姿を見せたくなかったんだろうな。
もう隠しきれないのだし、と通された部屋で、俺と弟はA君と久々に顔をあわせた。

A君もお母さんに負けず劣らずに、やつれ果てていた。
以前、弟がお見舞いに来たときよりも、ずいぶんと顔色が悪くなっていたらしい。
頬がこけ、目が血走り、自分の左肩をバンバンと忌々しげに叩き続けていた。
ああ、「死ねしね様」を叩いているんだなと俺は思った。
「死ねしね様」が囁くのは常に左耳で、囁かれるとき、少しだけ左肩が重くなった気がするからだ。

A君は数か月前、「〇ね」という声を耳にして左を振り返った。
そして、「死ねしね様」の姿を目にしてしまった。
「死ねしね様」の姿を見たというのは初じめて聞く話だった。
以来、ほぼ毎日、ずっと張り付いたままなのだとA君は言った。

A君がやつれ果てているのは恐怖もそうなのだろうけど、
もっと単純に、眠れていないからだと思った。24時間ずっと、「〇ね」と左耳に囁き続けられれば、眠れるはずもない。

「死ねしね様は、死ねって言ってくるけど、無視していれば自然に消えるんだよ」と教えてあげたんだ。
でもA君は、くびを横に激しく振って、「違う」と言った。それから、「ずっと消えない」とも言った。

俺には、「死ね」と聞こえた。
爺ちゃんには、「ちね」と聞こえた。
でもA君には、「〇ね」と聞こえたらしい。
A君は、「〇ね」と何度も繰り返し言ってくれたのだけど、俺の耳には、「死ね」としか聞こえなかった。

何年もしてから、LとRを聞き分けられないことと同じ理由なのだと気がついた。
普段から「死ねしね」あるいは、「ちねちね」という言葉を聞いていたから、正しい発音を聞き取れなかった。
だから、「死ねしね様」の囁き声は聞こえても、いままでは誰も姿を見ることは無かった。
でもA君は、「死ねしね様」の話題が禁止されたあとに転校してきた子だったから、「〇ね」の正しい発音を聞いてしまったんだ。