普通の人達が普通に語る日月神示 第六巻
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
日月神示の本スレは荒らしのせいで破壊され真面目に議論できる環境は失われました。
過去、スレが多く乱立するなどオカルト板の日月神示関連の議論は白熱していましたが、
当時のメンバーはもうオカルト板を去ったのでしょうか?
今も一人でもひたすら本スレを使用不可にし続けている荒らしはもう隔離しときまして
こちらで心機一転、当時のメンバー方も再び待ちつつ皆でぜひ話らいましょう
追記;いつもスレ参加いただきありがとうございます。
このスレも6スレ目を迎えることができました。
前スレに引き続き、このスレでもコロナ禍のことを踏まえつつ、神示と世の立て替えについて語るスレになりそうです。
コロナとは五六七?ミロクの世の入り口?大峠の真ん中の子の年?
議論は尽きませんが、このスレでも白熱した議論が行われますことを祈念致します。
それでは新スレ、スタート!(@^^)/~~~
前スレ
普通の人達が普通に語る日月神示 第五巻
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1586556525/ >>850
行→心なんだから、心の中の我を取り払うには、
我の為の行をやめて、みんなの為の行を行う理屈が分からね? 中国ざまあ
とまでは書かない。
日本もこの先峠を控えてるので。(他国を心配してる余裕はない) 「この世の仕事すてて、神の為ぢゃと申して飛廻る鼻高さん、ポキンぞ。
仕事仕へまつれよ。徳つめばこそ天国へ昇るのぢゃ。」
「人に知れぬ様に徳つめと申してあろがな、神の国に積む徳のみが光るのざぞ、」
人の為の仕事(行)が、神の国(心)に徳を積むことになる。
この心の中に積まれる徳が宝であり、命の源。 日月神示をおろした霊的存在が
地底にある地獄に堕とされ
最大火力で永遠に火あぶりの拷問になるように 「皆の者喜ばせよ。その喜びは、喜事(よろこびごと)となって天地のキとなって、
そなたに万倍となって返って来るのざぞ。」
皆を喜ばせた喜びの行は、天地のキとなって自分の心に返って来る。
心をキで満たす者と枯らしてしまう者とに分かれるのが最後の審判。 最後の審判でプレゼントを受けるってことばかり言っているが、
そのプレゼントをくれるのは誰なんだよ?
人と神が協力して新しい世界を作らなければならないのに、人はただ自分の性格を良くするだけでプレゼント待ちか?
何にも建て替えのために働けないじゃないか
日月神示は建て替えのために働く御魂が欲しいと言ってる
性格を良くするだけで世界の建て替えのために働けるか
自分が空っぽになって神の光を通さないで、ただ自分の性格だけを良くして、それでプレゼントがもらえると思ったら大間違い 真の王は何かを“得る”のかではなく、何を“与える”かを考える
ライオンキング 洗濯と申すのは何事によらん、人間心捨ててしもうて、知恵や学に頼らずに、神の申すこと一つも疑わず、
生まれ赤子の心の初心になりて、神の教え守ることぞ。
身魂磨きと申すのは、神から授かっている身魂の命令に従うて、肉体心捨ててしもうて、
神の申すとおり背かんようにすることぞ
片輪車でトンテントンテン、骨折り損のくたびれ儲けばかり、いつまでしているのぞ
神にまつろえと申してあろうがな、臣民の知恵で何出来たか、早う改心せよ
我でやろうと思ってもやれないのざぞ、
それでも我でやって鼻ポキンポキンか、そうなれねば人民得心出来んから、やりたい者やってみるもよいぞ、
やってみて得心改心致されよ >>857
良い子にプレゼントくれるのはサンタ=救世主だわな。
良い子ってのは >>856 の心をキ=神の光で満たした者。
次の世界には一切の穢れを持ち込ませないから、
穢れの無い性格=神の性格の持ち主しか入れない。 ちょっといいかなぁ
日月はネットで一度読んで(ネットで読ませて貰えるなんて有難いね)内容は面白かったのだけど言葉も内容も難しく感じたから
次は大日月地の本を購入して読んだんですよ
で、1周目を終えて半年開けてから2周目に入り、早速序盤で1周目では分からなかったけど
これはもしかしたらこういう事かしら?という部分があったから、日月にも通じるか詳しい人達の意見を聞きたくなりました
よろしいですかね >>861
日月神示の続きとうたっているものは残念ながらみんな偽物だよ。
そもそも日月神示は大本教で逮捕されなかった人たちによって作られたものだからね。 >>862
ごめんなさい、人が本物か偽物かではなくて
気づいた事が日月にも通ずるかどうか
それを聞いてみたくて。
やめておいた方がいいかね
んー、やめておこうか。
ごめんね、邪魔して。では! >>860
だから〜、君は言ってることが矛盾してるんだよ
「穢れの無い」、「神の光で満たした者」っていうのは、自分の想いを完全に捨ててしまって、
神の光のままに動く人のことを言うんだよ
自分の想いを完全に捨ててるのに、あ〜、自分の性格が悪い、もっと良くしなきゃって想うか?
神の光で満たしてるんだから、自分の想いはないだろ
自分で善悪の価値判断をしてたらおかしいだろ
君の言ってるのは自力の行なんだよ
日月神示は他力の中の自力だ
自分でどうこうしようってんじゃない
自分どうこうしようという想いを完全に投げ捨てるということ
自分の想いを完全に投げ捨てんのに、自分の性格が良い悪い、もっと自分の性格を良くしなきゃって
それじゃ神に任せ切ってないじゃないか
ちょっと君は危険だよ
間違った方向に神示を解釈してる
もう時間がないんだよ
そんなことやってる暇はないぞ
もっと人のいう事に耳を傾けなきゃ >>863
ちょっと試しに言ってみて
そういうのも面白いね
大日月地ってのは時々出てくるけど、おそらく日月神示を熟読した人が書いているだろうから
スキがないかもしれないね
ただ、そういうのは必ずどこかに穴があるはず
そういう熟読者に対抗するには、こっちも相当やってないとダメだ まあ、今の僕の領域(なんとかなる)に来るのは容易じゃない。 >>860
自分で良い悪いの判断を残したまま、天国には入れないよ
その価値判断こそ、我ということになるから
分別する我があってはダメということ
性格をよくしよう、善いメグリを積んでいこう、そういう善悪を判断する我を持っていたんでは、
いつまでたっても自分はなくならない
自分が詰まってるから神の光が通らない
我がなくなって神の光が通るから、世の建て替えで働けるわけだよね?
世の建て替えをまず達成しなければ、プレゼントもないよ
建て替えをする御魂になるにはどうすればいいかってのが日月神示の趣旨であって
自分だけ良い行いをして自分だけ綺麗になって、最後にプレゼントをもらおうってのは日月神示の趣旨じゃない
まず空っぽになんなきゃ働けないでしょ
神の御力が自分を通して出てこない
自分の性格をいくら良くしたって、行いを正したって、それじゃただの善い人間じゃん
神の力も糞もでないよ
そんなのは社会に貢献するかもしれないが、世の建て替えには役に立たない >>864
「おかげないと不足申してゐるが、悪いくせ、
悪い内分を変へねば百年祈りつづけてもおかげないぞよ。」
悪いくせ、悪い内分を変えなきゃおかげ=神のご加護はないと言ってんじゃん。
すなわち、行、心を自分(小我)→皆(大我)に変えなければ、
神とはつながれないってこと。
「心のいれかへせよとは新しき神界との霊線をつなぐことぞ。
そなたは我が強いから、我の強い霊界との交流が段々と強くなり、
我のむしが生れてくるぞ。我の病になって来るぞ。
その病は自分では判らんぞ。わけの判らん虫わくぞ。
わけの判らん病はやるぞと申してあるが そのことぞ。」 >>867
「この世の仕事すてて、神の為ぢゃと申して飛廻る鼻高さん、ポキンぞ。
仕事仕へまつれよ。徳つめばこそ天国へ昇るのぢゃ。」
何もせずに我が無くって神と繋がれるわけじゃない。
人の為に働いて(徳積んで)神の元に自分から近づかないとつながれない。 次元が上がる時は裏表何度も返るから意見が合わない時もある >>868
悪い内分を変えるとは、究極的には自分を空っぽにするってこと
この場合の「悪」とは、究極的には「善悪に囚われる」のを「悪」、
「善悪を超える(自分が空っぽになる←完全に神にお任せ)」というのを「善」ってこと。
>すなわち、行、心を自分(小我)→皆(大我)に変えなければ、
>神とはつながれないってこと。
いや、だからね…
言ってることは間違ってないんだよ
この文章は正しい
だけどたぶん中身を本当に理解してないよ
大我になるってのは、自分が完全に無くなることだよ
良い悪いの価値判断をする自分が完全になくなるってこと
で、自分の想いで大きな仕事をして、それで大我の仕事になってるってのは、大きな間違いだよ
仕事を大我にするんじゃないんだってw
大我の仕事をしようってことで完結するんじゃない
人のため、世の中のために仕事を一生懸命するってことは、自分の我欲を出してる暇がないでしょう?
だから、自分のためだけの仕事をしていれば、我を満足させるだけになるけれど、
他のために一生懸命仕事をするってことは、我が削れていくんだよ
それで我が削れて自分が無くなるから、大我と一体になることができ、神の光が通ることが出来るんだよ
自分の想いで大きな仕事をして、そのこと自体が神とつながることだと思ったら大間違い
自分の想いを無くすためにやるんだよ >>869
だからそれ、徳を積んで神様につながるんじゃ、神と人が離れてるじゃないか
その文章はこう解釈すべき
一つは徳を積めば善いカルマが返る種となって、やがて良い世界へ行ける ←これは一般的な天国
日月神示は今その人たちの生活が正されるようにってことでアドバイスしてることもある
これは仏教でも同じ
仏教の趣旨は究極的には善悪相対の世界を超えることだが、カルマの法則を教え、なるべく良い世界へ転生するようにって教えも説いてる
二通りあるわけだ
だから日月神示も本当の徳を積むということは、自分が空っぽになって神の意志のまま働くことだ
そうすればその徳によって本当の天国弥勒の世に行ける
>何もせずに我が無くって神と繋がれるわけじゃない。
>人の為に働いて(徳積んで)神の元に自分から近づかないとつながれない。
だからw 言ってることは正しいんだよな
でも、中身勘違いしてるでしょ? ってこと
人の為に働いて神の元に近づくってのは、人の為に働くと自分が無くなるから神の元に近づけるってこと
決して善いことした徳で神に近づけるわけじゃない
自分が無くなっていく、我を削っていくという「徳」によって、はじめて神に近づけるんだよ 神示には、我があっても無くてもだめだとあった気がしますが >>873
そう、だけどその意味は、点を真ん中に学が収まるのと同じ意味合いで、
神が中心に入るのがまず前提
そして神と我が調和して、神を元に我が使われていく…
ただ基本的にはまず我を無くさなきゃ
初めは六分国のため、四分自分の為、次は七分国のため、三分自分の為、次は八分国の為、二分自分のため、と云ふ様にして呉れよ。
これはまだ自分あるのざぞ。自分なくならねばならぬのざぞ。
神人一つになるのざぞ。 >>871
自分を空っぽにするんじゃなくて、自分を大きくして全体(神)と一体になること。
>>872
今は天にいる神と地にいる人は離れてるんだよ。
だから地にいる人は徳を積み上げて天に上らなきゃならない。
行→心→口→行→心・・・
このメグリの中で自分を大きくして神と一体となる者。
どんどん我を強くして獣となる者とに分かれるって話。 >>865
いいの?スレ違いなの分かってるから了解得ないと書けないや、と思って。お言葉に甘えさせて頂きますよ。ありがとうございます。
いの巻から少しだけ抜粋
スサナルの尊、みな思うておる神様とは違うぞ。
この神様、地の大神様であり、世の元からの生き神様であるぞ。
スサナルの尊=地の大神様
もしかして地球?
えの巻から少し抜粋
地の神様いよいよ生まれ変わるのであるから、目開けて見ておざれ。
いわゆるアセンション?というやつか、と思ったの。どうかしら? >>876
>自分を空っぽにするんじゃなくて、自分を大きくして全体(神)と一体になること。
自分で自分を大きくするんじゃないよ
そこを間違えちゃいけない
自分が空っぽになるから、宇宙大に大きくなんだよ
君の言ってるニュアンスは、自分で自分を大きくしようとしてる
>今は天にいる神と地にいる人は離れてるんだよ。
>だから地にいる人は徳を積み上げて天に上らなきゃならない。
だから別って言ってるんだよ
神と人が離れちゃってる
人が人の力で徳を積み上げて神に近づくんじゃない
自分と神は本来一体なんだよ
ただ我が邪魔してるってだけで
離れてるものが近づくってことじゃない
元々一体であるものが気づいていくってこと
離れてるものが一方の努力で近づくというニュアンスは、本来別々のものだっていうニュアンスになっちゃう
普通の人は神と人は別々のものって認識だよね
でも、スピリチュアルを結構かじってる人は、神と人が本来一つだってことに気づいてる
あとは我を空っぽにして通すだけだ >>878
自分の心口行によって大きくするんだよ。
もともと一体だったけど人間は神の元を離れたんだよ。
で再び戻ってくることを神は待っているんだよ。
だから神=松と象徴されている。 >>877
それは日月神示の受け売りに近いと思う
日月神示でもまったく同じこと言ってるね
>スサナルの尊、みな思うておる神様とは違うぞ。
>この神様、地の大神様であり、世の元からの生き神様であるぞ。
この辺
>スサナルの尊=地の大神様
>もしかして地球?
これはどうかな…
国常立之神とかウシトラノコンジンと同体と思っていいわけだから、日本列島のことと言えるかもしれないし、
地球の鬼門が日本ということで…
宇宙から見ると地球ということでいいかもしれないね
拡大すれば
「スサナル=国常立之神=ウシトラコンジン」 = 地球 ってのは、詳しく調べれば何か出てくるかもしれないね
出口王仁三郎とか日月神示とか
現時点ではちょっとわからないな
>地の神様いよいよ生まれ変わるのであるから、目開けて見ておざれ。
>いわゆるアセンション?
基本的に日月神示のおお建て替えってのは、アセンションと同じことだと思っていいんじゃないかな
アセンションにも人によって解釈が変わるけれど
その文章でこれからやるよ〜って言ってるのは、アセンションということだね >>879
自分が大きくなるように努力するんじゃないよ
自分がやることは、大きくしようとか、まだまだ小さいとか、そういうことじゃない
ただ神に自分の想いを明け渡すだけ
その結果大きくなんだよ
枠を外せば全体に溶け入るでしょ?
全体と一つになる
枠を外すから大きくなるんであって、枠を大きくしていくわけじゃない
人間が神の元を離れたという言い方もできるかもしれないけど、最後に一体になるときには
別々のものが一体になるんじゃないんだよ
元々一つだったものだから、回帰して一体になるってこと
人が神の元で暮らしてて、そこから人が旅だって、離れたってわけじゃない
人が神だったんだよ
我が出来てその部分が下降してきたわけ
だから我がなくなれば、必然的に神の元に上るということになる >>880
同じ宇宙の真理を別の見方で、違う解釈で表現していると思えばいいんじゃないかな
阿弥陀如来は天之御中主神と同じという感じで、アラーも同じじゃないかな >>883
私は昔から宇宙に閉じ込められているような感覚があります
あまり宇宙に対して対して良いイメージが持てません
宇宙は神の創造物とありましたが、そういう表現が腑におちます >>882
自分で >>875 に書いてんじゃん。
「初めは六分国のため、四分自分の為、次は七分国のため、
三分自分の為、次は八分国の為、二分自分のため、と云ふ様にして呉れよ。
これはまだ自分あるのざぞ。自分なくならねばならぬのざぞ。
神人一つになるのざぞ。」
一気に神と溶けきることはできないから、一分ずつ大きくしていく他ないよ。
基本的に神は1で、人は123・・・と神から遠ざかっていく。
で10あるいは12で再び神の元1に返る。 >>884
知らないけど、パッと調べた感じでは、自分を空っぽにしたとき
宇宙から流れてくる大きな気みたいなもんかな >>885
スピリチュアルや宗教で「宇宙」と表現するときと、一般で「宇宙」と表現するときと、
二種類の違った意味合いになることがあるね
一般的な「宇宙」というのは物質的な宇宙jということで、有限的なものだよね
しかし宗教的、スピリチュアル的に宇宙という時には、すべての世界というニュアンスで
物質的宇宙の外側も、あるいは、上下各次元の違う世界もすべてを含んだ全ての宇宙という意味だよね
だから、宇宙=神 あるいは、宇宙=阿弥陀如来 という時は、この「宇宙」というのはすべての世界すべての次元を含んだ
無限の宇宙ということになるね >>887
徳を積むことによって天地の間を満たすこと 空っぽが尊いというならなにも知らない赤子が一番尊いということになる
その矛盾を考察できてない時点で駄目と看破されてる >>886
>一気に神と溶けきることはできないから、
いや、これは距離の問題というよりも、いきなり自分の我欲を全部捨てて
公のために尽くすってことは出来ないでしょって話
だから段階的に捨てていきなさいって言ってるだけで、つながらないからジワジワ行きなさい、距離を縮めなさいってことじゃない
イッキにできる人はそりゃやった方がいいさ
いきなり全部国のため、公のためってやれる人はやったらいい
だけどふつうの人間には出来ないよね
やってみればわかるよw
俺もやったことがあるけどw
他心通まで行ったけどw
だけど続かなかったね
それほど難しい
あんまりやると自力の行になっちゃう
そうすると自力が残っていつの間にか我に交代しちゃう >>889
ちがうね
徳を積むってのが好きだねぇ
>天地に恥じることのない道義にかなった行動をすることで、
>心に自然と生まれてくる強い精神のこと。
公のために尽くして我が無いとき、自然に出てくる宇宙の気のこと、と言ってもいいかもしれない >>894
孟子の言う徳を積むというのは四端を養うこと >>891
かつては我欲無いのが当たり前だったんだよ。
心→口→行→心・・・のめぐりによって
ここまで我が強くなった=穢したから難しい。 >>890
赤ちゃんは尊いし、植物もそのままで尊いんだよ
我がないからね
だけど赤ちゃんは、やがてカルマも出てくるし、
思考分別に汚染されていく
>その矛盾を考察できてない時点で駄目と看破されてる
まだ考察も聞かない段階で、いきなりダメと決めつける…
こういうのが問題のある態度っていうんだよ >>897
じゃあ方針を赤ちゃんに示してもらえるのか? 赤ちゃんが だぁ とか呻いたらこれはこう言ってるに違いない!とかすんのか?w
その場合その方針は本当に赤ちゃんの示したものなのか??? >>895
うん、だからそれもパッと調べてみたけど、四端というのは我の無いところに出てくる人間の神性の性質みたいなもんだ
そこに合わせていけと言ってるわけだろ?
つまり、自分の我を無くしていけ、大我に一致させろ、ってことなんだよ
だからこの場合の徳を積むってことは、自分を無くして大我を行使するってことだ
自分の善い行動を積み重ねて、それが徳となってそういう精神が得られるってのは
非常に浅はかな考え >>898
だから、いくら尊くてもそれがそのまま物質社会で働けるってわけじゃない
だからこそ、神の入れ物になって働けるヤツが必要だって言ってるわけだよ >>900
存養って言葉は理解できるか?
人の本来そなえてる性を養い増やすことだ
それは自分を無くすことではなく性根が学習する悪徳を洗い落とすことと両立しうる >>901
それは結局あなたの色眼鏡でしかないということ
色眼鏡こそを外して性根を養うことこそが尊い >>896
そう、最初は我がなかったわけだよ
ところがカルマの連鎖によってだんだん我が定着してきた
捉われが強くなってきた
だから君の言ってるのを、カルマがエスカレートしていく過程、と言ったのだよ
ここまでエスカレートした「我」を、どうやって「我」で良くしようというの?
その「我」もまた、カルマが返ってきたものに過ぎない
唯一やれるのは、我を放棄するということ
自分のカルマをどうこうしようというのは、到底不可能だし、不自然なことになるよ
これは座禅で雑念を一生懸命消そうとしてるのと同じ
雑念は一向に消えない
雑念が出ても出なくても構わないと、自分の分別を投げ捨てたときに唯一雑念は消えていく >>902
>「存養」の意味は本来の性質を失わぬようにして、その善性を養うこと。
本来の性質とは神性のことだろ
それを失わぬように養うとは、大我に合わせて生きるということだ
つまり、小我の想いを出さないように努めること
つまり、自分の想いを無くすように努めることこそ、「存養」の真の意味だ 性質って確り自分でも書いてるのに態々違う語句にこね回してる時点で色眼鏡
それとも本来の性質の意味が理解できないので別の言葉を使いますとでもいいだすのか? 本来の神性もなにも性質は性質だし
神は申を示の意だよ >>908
それいぜんに単語を理解できてないのか?
性質≠神性
でいいだろうに難しくする必要は無い >>909
なんでそういう解釈になるのかわからない
本来の性質 = 神性 のことを言っているのであって、ここでいう「本来の性質」とは、
宇宙に自然に備わってる気、と見るのが適切だろ
なぜ 性質 = 神性 ととったのか… 何を言いたいのかがわからない >>910
ひとの性質はひとの性質であることは確かだが
神の性質であるとは限らない
なぜ借り物を尊ぶのか? >>904
だから我を強くする負の連鎖(心→口→行→心→・・・)を断ち切って、
神に向かう正の連鎖(心→口→行→心→・・・)に改めろと言っているわけ。
自分の分別を投げ捨てろじゃなくて、神示には和解しろって書いてあるぞ。 >>911
「浩然の気」というのは人の性質ではない
人を通して出てきた宇宙の性質
ここでいう宇宙とは神と同義語だ
つまり、人を通して現れた神の光の一端が、「浩然の気」ということだ >>913
四端の存在を養ったものだよ
なんで自ら以外を突然引っ張って来るのか?
自ら以外のものをこそ洗い落とせ >>912
負の連鎖を断ち切るのに、我で断ち切ろうとしたら本末転倒でしょ?
それは無念無想になろうと、想いの力で一生懸命やってるのと同じ
想いはいつまで経っても消えない
そこでまた負の連鎖が出来ちゃう
断ち切れないから苦しむ
>自分の分別を投げ捨てろじゃなくて、神示には和解しろって書いてあるぞ。
正確にその部分の神示を書いてくれ
そうしたら具体的にレスできる >>914
笑
だから、四端を養うというのは、自ら作り上げることじゃないんだよ
もともと天に流れているものを、自分がただそこに合わせていくということ
そしたらそれが自分に流れて来るだろ?
それを合わせ続けて途切れないようにするってのが、養うということなんだよ
根本的に我を無くすということが信じられない人だな >>916
たとえば天から水の気を自らに引き込んだら身は削がれるものなのよ?
信じられない云々じゃなく知ってるのよ? >>919
書いたままだよ
自分を無くしたいというか汚れを先ず落とす分には気を呼び込むのはありだがそれ以降はやっぱり自らを養わなければ天地の間を満たせない >>915
少しずつ人の為を思って行動することが、
どんどん人の為を思える心に反映すると何度言ったら分かるのやら。。
「小さい事、大きい事、皆それぞれに御役勇んで仕へまつれよ、
分け隔てと云ふ事なく一致和合して神に仕へまつれよ、
和合せねば誠のおかげないぞ。先づ自分と自分と和合せよ、
それが和合の第一歩、アメツチ心ぢゃぞ、」
「自分と自分と和合せよと申してあるが、
肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。
更に、又奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神であるぞ。」 >>920
ああ、水行のことをよく禊というよね
なるほど、身を削ぐということね
ただ、これは型だと思うんだけどね
水で洗い流すということに、我という汚れを洗い流すイメージに重ねる
>汚れを先ず落とす分には気を呼び込むのはありだが
ちがう、汚れが落ちるから気が流れ込んでくるんだよ
>自らを養わなければ
大我を真似ることが養うということになるかもしれないが、一番手っ取り早いのは、自らを明け渡すこと >>922
キチガイ状態をよしとしてたのならまあ…がんばってくれ >>921
>少しずつ人の為を思って行動することが、
>どんどん人の為を思える心に反映すると何度言ったら分かるのやら。。
だからこれはカルマを習慣的に変えるということだろ?
こんなのはカルマの法則に対する対処方じゃないか
日月神示の言ってる本質とちがう
人のために働けば、それは時がたって善いカルマとなって帰ってくる
その善いカルマが返ってきてどうなる?
悟れるのか?
覚者になれるのか?
それは全然ちがう話だ
自分と自分を和合というのはよく出てくるが、これは例えば、善悪の分別をしている人にとって、ネガティブな状況というのは受け入れられないだろ?
たとえば、無念夢想という善を目指している人にとって、雑念という悪は受け入れがたい
そこで何とかこれを消そうとするわけだ
そこで葛藤が起きる
消そうと思ってもなかなか消えない、ますます消そうと力が入る、でもまた出てくる
こういうのは、自分のありのままを受け入れられていない状態ともいえるんだよ
自分のありのままを受け入れるということが、自分と自分を和合させるということの本意
ありのままを受け入れるには、善悪の分別を放棄しないといけない
自分の我を投げ捨てたとき、自分の中の善悪を和合させることが出来るんだよ >>924
我を投げ捨てるというのはキチガイの状態じゃない
むしろその逆
自分が空になれば天の気が流れ込んでくるから、性格は抜群に良くなるし、行動も素晴らしくなる
運もよくなる
自分に必要なことは面白いように叶うようになる
我を捨てるっていうと何も感情がないように聞こえるが、それは違う
天の気が満ちていつも最高の幸福感があふれているような状態になる
すべてが良くなるんだよ
ここを目指さなくてどうする >>927靈気ではそんな内容のことが説かれていますが、同じようなことですか? >>924
ちなみに日月神示ではこういうのがあるな
ウシロラノコンジンの肉体は日本の土ざと知らしてあろう、
土に生きよと申してあろう、
地は血であるぞ、素戔嗚命様であるぞ
その土が成長して果ての果てに皮をぬぐ、それが地変であるぞ >>929
具体的にはどんな内容?
霊気って大本教系? >>926
だからマザーテレサの言葉で説明したじゃん。
「行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。」
性格=心を形成するのは習慣化した行動だって。
人の為にやったこと=カルマは人を思える心に返るんだよ。
そうやってどうしようもない我欲を導いてやることが和合。
「邪はらふとは邪無くすることではないぞ、
邪を正しく導くことざぞ、追払ふでないぞ、まつろへよ。
引寄せて抱き参らせよ、取違ひならん大切事ぞ。」 安価間違いなのは理解したがなかなか面白い
ウシロラノコンジンの肉体は日本の東北ざと知らしてあろう、
東北に生きよと申してあろう、
地は血であるぞ、素戔嗚命様であるぞ
その土が成長して果ての果てに皮をぬぐ、それが地変であるぞ >>932
マザーテレサの言葉はカルマの法則を念頭においたものすらさえなくて、
今生の生き方に焦点を当ててるだけだろ、その文章からは
>人の為にやったこと=カルマは人を思える心に返るんだよ。
>そうやってどうしようもない我欲を導いてやることが和合。
これは言ってることが意味不明
どうしてそこで我慾を導くというのがいきなり出てくるのか
たとえば、人の為にやろうやろうと思ってても、良い人間になろうとしても、悪い自分が出て来てどうしようもない時があるだろ
そういうとき、良い人間になろうなろうとする気持ちの強い人ほど、そういう自分に拒絶反応を起こす
ようは、自分の中で善悪が戦ってるわけだ
和合というのはありのままの自分を認めることだ
それは自分を善悪でジャッジしないということ
自分の中の分別を捨てるには、我を捨てないとダメ
つまり、自分を空にしないとダメなんだよ
また、自分の中の善悪を和合したとき、その和合の道を中行く道という >>931
霊気という言葉は再発見者である臼井みかお先生によって名付けられました。
その意味は「すべての存在の根源である宇宙エネルギー」という意味です。
臼井先生は「宇宙に存在するものは、ことごとく霊気を保有している」と言われました。
それは、「高次元の存在」から発せられる「愛の波動」であり、かつ純粋な「光」のことでもあります。
靈気では自分の気は使わず宇宙のエネルギーを使うみたいですが
これは自分の我を使わないということなのかなと
大本教とは関連についてはとくに記載がないですね >>935
三千世界(神幽現=心口行)の流れが見えていないから、
理解できないんだよ。
和合ってのは我を導いて神と一体化させることだよ。 三千 ミチ 未知 満ち 道☯
3K ミケ Micha
311 2011 トサ 土佐
三十一 さんとぉいち サンドイッチ
ウサ USA
右左 RL 規矩 菊 ツシ
ロエ OH 酸素水素 G@
HA は 26 Z Ω
Hi ヒ 27 A ひ スサナルの尊=地の大神様=地球
地の神様生まれ変わる=アセンション
(日月では地変という言葉なのね。地変の意味もアセンションととれるよね)
この解釈がここで中々の好感触だったので
自信が持てました
お世話になりました。ありがとうございました >>936
なるほど、その人悟ってるよね
>靈気では自分の気は使わず宇宙のエネルギーを使うみたいですが
>これは自分の我を使わないということなのかなと
これは全くその通りで、普通だったら、自分の気を凝らしてやるような感じだよね
いわゆる念力みたいな
それをまったく我の力が入らず、そのまま宇宙の気を通すということだから
これは悟りから来てると言ってもいいだろうね >>937
言ってる文章自体は正しそうだけど、具体性が見えない
>和合ってのは我を導いて神と一体化させることだよ。
これは具体的にどういうことなのか?
きちんと説明しなきゃ、自分の論の正しさを証明出来ないよ >>940
アセンションってのは高いレベルの世界になるってことだから、日月神示でも言ってることは同じだよね
ただ、いうの忘れたけど、世の大建て替え、立て直しってのは、アセンション + カタストロフィー が一緒になってるね
新しく世が変わるって意味ではアセンションと同じだね >>943
「自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなた達が和合することぞ。
それを改心と申すのざぞ。和合した姿を善と申すのぢゃ。」
一番外側の八人目(十人目)が肉体としての自分=我。
一番内側の一人目が神。 >>945
ではその和合とはどのようにするのか?
これを聞くとまた元に戻ってしまうが、ここでもう一度質問すると反論しやすくなるから
あえてもう一度聞こう
和合の方法は?
それから、八人目の肉体と、一人目の神の間はなんなのか? 人間になり人間として孤独と絶望の中で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」の言葉を発し、最後にすべてを神に委ねて、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(新約聖書ルカによる福音書第23章46節)と祈られて希望をもって死んでいかれたということではなかろうか。 >>946
別の表現をすれば、最上階が高天原。
そこから8段下りた場所が地上界。
その地上界から徳を積んで1段1段上ることが和合。
だから和合の方法とは、大我の方に向かう
思考であり、言葉であり、行動であるように導くこと。 >>947
それは本物のスピリチュアリスト達からすると、間違った解釈というのが一般的だな
キリストが最後の時に肉体の命のために嘆くようなことをするはずがない
矛盾した話になっちゃう
エリ エリ レマ サバクタニ ではなくて、真実は…、
エリ エリ レマ ズバクタニ
父よ私は自分の魂をなたに捧げた。そして今、使命を果た
父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます >>948
だからまず地上界の肉体人間と和合しなければならないんだろ?
で、大我の方に導くって、誰が導くんだよ?
それも思考だろ?
大我になっていない自分の思考が果たして導けるのか?
何様だよってことになるぞ
で、その思考がどうやって導くんだよ?
大我の真似事をするのか?
真似事はモノマネに過ぎんぞ
それでは理想をただモノマネして、現実の肉体の自分と和合出来ないではないか
それから、八と十という数字が出てくるが、これは神と人に例えるならば、
一が神で高い次元なのではなく、数字の大きい方が高い次元である可能性があるので注意 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。