一方、日本は徐々に撤退し、また撤退を余儀なくされ、日本が朝鮮で失った影響力はことごとくロシアの手に渡った。

(P474)
朝鮮国内は全土が官僚主義に色濃く染まっている。
官僚主義の悪弊がおびただしくはびこっているばかりでなく、政府の機構全体が悪習そのもの、
底もなければ汀もない腐敗の海、略奪の機関で、あらゆる勤勉の芽という芽をつぶしてしまう。

職位や賞罰は商品同様に売買され、政府が急速に衰退しても、被支配者を食い物にする権利だけは存続するのである。

日本人が「改革」と呼ぶ新しい秩序は1894年7月23日に日本兵が景福宮を武力で占拠した時点からはじまった。
相ついで発布された(必ずしも施行はされなかったが)改革法令は日本公使が主導したもので、まもなく到着した日本人「顧問」が仔細に調整した。
日本は朝鮮式機構の複雑多岐にわたる悪弊と取り組み、是正しようとした。

現在行われている改革の基本路線は日本が朝鮮にあたえたのである。
日本が朝鮮の政治形態を日本のそれに同化させることを念頭に置いていたのは当然であり、それはとがめられるべきことではない。
以下略
1894年7月、大島氏は官報を鮮明な活版印刷で発行するという有益な刷新を行った。
そして翌年1月には漢字と「無知な者の文字」とされていた{ハングル}の混合体官報に用いられ、一般庶民にも読めるようになった。

(P493)
朝鮮の教育改革計画はもともと日本人による改革時代に発案されたもので、初等学校制度、直接成果の出る師範学校、中等学校の創設がその内容である。
以下略
相当数の初等学校も同様で、1000人を超える男の子が算数、地理、朝鮮史の初歩や他の文明諸国の政治体制のあらましを学んでいる。
77人の青年が官費で日本に留学しており、外国語の習得にはかなりな成果をあげているが、数学の適正と理論力に欠けるといわれている。
全体として、朝鮮の教育の前途は見込みなしというものではない。

(P500)
公金を横領するための技巧や策略にかけては、朝鮮人はことのほか創意と才能を発揮し、朝鮮の官僚の不正行為ほど根絶しにくいものはない。