名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている
公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である

そして盗む側には官界を膨大な数の人間が含まれる。
「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた
以下略
かくして「旧秩序」は日本人顧問の圧力下で日々変化を見せており、概してその変化は良い方向を目指したものであったとはいえ、
制定ずみもしくは検討中の改革の数があまりに多いため、なにもかもが暫定的で混沌としていた。朝鮮は清と日本のあいだで「迷って」いた。

清が勢いを盛り返したら「憎まれる」のではないかと、日本の提案する改革に心から同意することもできず、
また日本の天下がいつまでもつづくのではないかと思えば、改革に積極的な反対もできなかったのである

(P350)
わたしが朝鮮を発った時点での状況は次のようにまとめられよう。日本人は朝鮮人を通して朝鮮の国政を改革することに対し徹頭徹尾誠実であり、
じつに多くの改革が制定されたり検討されたりしていた。また一方では悪弊や悪習がすでに排除されていた。国王はその絶対君主権を奪われ、

実質的には棒給をもらう法令の登録官となっていた。井上伯が「駐在公使」の地位にあり、
政治は国王の名において10省庁の長官でなる内閣に司られていたが、その中には「駐在公使」の指名する者が数人含まれていた。

(P364)
王妃暗殺からほぼ1ヶ月、王妃脱出の希望もついえたころ、新内閣による政治では諸般の状況があまりに深刻なため、各国公使たちは井上伯に訓練隊を武装解除し、
朝鮮独自の軍隊に国王の信頼を得るに足るだけの力がつくまで日本軍が王宮を占拠するよう勧めて、事態を収拾しようと試みた

日本政府がいかに列強外交代表者から非難を受けていなかったかが、この提案からわかろうというものである。
しかし井上伯は日本軍は武装して王宮を再度占拠するという方策は、国王の身の安全を確保するという目的のためとはいえ、
重大な誤解を受けやすく、またきわめて深刻な紛糾を招きかねないと考え、即答を避けた。

列強が日本に対してはっきりと要求しないかぎり、このような発案が考慮されるはずはなかった