(P342)
1895年1月、ソウルは奇妙な状態にあった。「旧秩序」が変わりつつあるのに、新しい秩序は生まれていなかった。
陸海戦ともに勝利した日本は、戦前、清に協力を要請していた国政改革を朝鮮に強要する態勢にあった。
1894年7月に日本軍が王宮を占拠して以来、国王は「棒給をもらうロボット」にすぎず、またかつて権勢を誇った閔一族は官職から追放されていた。

日本は全省庁の監督責務を引き受け、腐敗した行政官に公正を強いる構えでいた。
1894年9月17日、平壌で清国軍を敗退させた日本に、目的実行をはばむものはなにもなかった。
以下略
とはいえ、改革事業は予想をはるかに超えて難航し、井上伯がほぼにっちもさっちもいかない状態であることは明らかだった。
伯爵は「使える道具が何もない」と考え、それをつくれたらという希望のもとに、上流階級の子弟多数を2年の予定で日本に留学させた。
最初の1年は勉学に努め、次の1年は官庁で実務の正確さと「道義の基本」を学ばせるのがねらいである。
以下略
朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。
一般大衆は、本当の意味での愛国心を欠いているとはいえ、国王を聖なる存在と考えており、国王の尊厳が損なわれていることに腹を立てていた。

官吏階級は改革で、「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、
全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。
政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、
首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層ををしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。

このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。