柿ノ嵐 [無断転載禁止]©2ch.net
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ウソと偽りの境界は
ときとして曖昧なものといいます
信じられないような絶句ばかりの現実も
目覚めてみたらただの夢のような事実とか
とかく私たちは
こうあるべきという浮動感や
こうあって欲しいという虚無の中で
頑なに揺蕩っています
私はこれから
ある一連の
脳や心の健常性を示す狂気の思い出を
無根の事実を少しだけ混じえて
細々と話します
私は、かつて柿ノ嵐と呼ばれました
そうです
得体の知れない彼ら彼女らは
ほかに呼びようもない私を
柿ノ嵐と静かに指差して騒いだのです
さあ
よろしいでしょうか アレキサンドロスのマケドニア、思い出して下さい
アケメネス朝ペルシアを破ったガウガメラの戦いですね
あれは騎兵部隊のみが斜め右に斜行してましたが
このフリードリヒの斜行戦術は
なんと騎兵のみならず、歩兵や砲兵も斜行するんです 全兵種が斜行するために
フリードリヒはあらかじめこの斜行戦術のために猛特訓をして
準備をしていたのです
事前に全軍斜行の猛特訓です
ドイツ人の気質がプロイセン時代からあったんですね
で、問題は砲兵なんですが
(この時代、弓兵は砲兵に置き換わってます)
砲そのものも馬で牽いて移動、砲を操る兵も馬に乗って移動です
大切な事は
全軍斜行の間、敵軍に横陣の陣形を変えさせない
つまり柔軟な対応をさせないことで
とにかく意表を突いて、
何だ何だなんなんだ?で動揺してるうちに迅速に移動を完了する
そのための事前の猛特訓です フリードリヒがアレキサンダーの影響を受けたことは明白です
彼は古代ギリシャ以降の戦術史を研究したわけです
そして自分なりのアイデアで改変を加えた
極端な話、フリードリヒが出現してなかったらナポレオン登場もなかった
そのように思います
エパミノンダス、フィリッポス2世、アレキサンドロス、ハンニバル、、、
連綿と続いた欧州の天才戦術家の系譜は、
結局中世で途切れたようで途切れなかった
復活しました あ、ひとこと
近代の歩兵・騎兵・砲兵の複合兵種ワンセットを完全に確立したのが
グスタフ・アドルフです
やはりルネサンス以降の人ですね
いまのスウェーデンがスウェーデンであるのはこの人のおかげです
嫁が欧州一番の美人かつ欧州一番のヤンデレで
生んだ子が娘だったので早くも嫉妬して殺そうとした
(夫が娘に溺愛する未来をいち早くみてしまった?)
死んだ夫の心臓を傍らに置いた
夫を愛するあまり夫の墓を暴こうとした 全然関係ない話ですね
すいません
今夜はこの辺で
明日はナポレオンのアウステルリッツの戦いです 歴史の陰には常にカキノゾォーレが存在しています。
非常に危険なのです ナポレオン
1769年〜1821年
フランス革命期の軍人・政治家、のちに皇帝
革命後の混乱を収拾し軍事独裁政権を樹立
戦勝と婚姻政策により英・露・オスマン帝国を除いた欧州大陸大半を勢力下に置いた
これら一連の経過をナポレオン戦争という ナポレオン戦争で有名な会戦は
戦史上不朽の名声を彼が得たアルステルリッツ
彼が敗北したワーテルロー
この二つは特に有名です あとロシア遠征もいまだに研究対象になってます
補給の観点からの検証と
敵野戦軍殲滅を逃して首都占領し冬に奪還され
戦略目標としては拠点占領より野戦軍殲滅を優先すべき
との戦訓を残したといわれます アルステルリッツの戦い(1805年)
フランス皇帝
オーストリア皇帝(神聖ローマ皇帝)
ロシア皇帝
これら3人の皇帝が参戦したので三帝会戦が別名
フランス、兵力73000人
オーストリア&ロシア、兵力84500人
損害
フランス、死傷8000人強
オーストリア&ロシア、死傷15000捕虜20000
結果
ナポレオン率いるフランス軍の完勝 >>634の図の1番目の図を見て下さい
青がフランス軍
赤がオーストリア&ロシア
青の最右翼に注目です
青フランスの中央や左に比して弱そうです
敵側からみてこの青フランス最右翼を攻めて
粉砕したのち中央の背後に回って包囲殲滅、、
と考えたくなります
実際そう攻めました青フランス最右翼を
しかしそれこそナポレオンの罠でした >>634の2番目の図を見て下さい
色が逆になってます
赤がフランス
青がオーストリア&ロシア
赤フランス最右翼はDavoutとありますが
ナポレオン配下の有名なダブー将軍ですが
この戦いでは囮約です
丸1記号、青敵軍の左翼がダブー軍に迫ります
ダブー軍が壊滅したら全軍が危機に曝されます
しかしここで
赤フランス中央のSOULT軍、ソルト将軍ですが
その中央ソルト軍の騎兵部隊が
待ち構えていたよいに狙いすまして
青敵軍に生じたギャップの部分に突入します
丸2記号と丸3記号ですね
赤ソルト軍の騎兵の隙間への突入により
青敵側は完全に分断されます
赤ダブー軍に接近してた青軍は孤立し包囲され
残りの青中央や青右翼は撤退します ナポレオンのこのときの戦術は
中央突破からの片翼包囲、とよく呼ばれますが
最右翼をわざと弱くして踊りにして
騎兵で機動させてギャップを生じさせる
そのギャップを騎兵で突く
アレキサンダーのガウガメラの戦いを参考に
アレンジしたものと思われます
ナポレオンは軍人として世に出るまでは
もろに戦術オタクで、
部屋に籠って戦術の勉強をしてたそうです ロイテンやアウステルリッツを見て
あることに気付きませんか?
ベリサリウスの方が複雑できめ細かい
そのように思いませんか?
ベリサリウス以前の戦術
そしてベリサリウス以降の戦術
いろいろ見てみると
ひょっとして史上最高の名将ってベリサリウスじゃね?
となるわけです 明日からの予定
「偽装撤退」
たぶんモンゴル軍を中心に
あと島津の野伏せりなど
「野戦陣地(野戦築城)」
百年戦争序盤の圧勝劇クレシーの戦い
から話すつもりです、野戦陣地プロトタイプとして
そしてなんといっても
野戦陣地の父にしてレコンキスタ完遂者コルドバ
あと長篠の戦い
さらに20世紀の塹壕戦までいきましょう 数箇所、アウステルリッツのはずが
アルステルリッツに間違えてます
アウステルリッツです 連絡しても連絡しても
いつ連絡するの?っていわれるし
好きだ愛してると何度いってもフラれた
って思われるし
それでも好きだから逃げるわけにいかない
フリードリヒにあやかって挫けずやるよ >>660
まったく通用しないっ
というか
私自身は年単位の時間を掛けて粘る
戦略家タイプだからw 気候も安定しないし、なんだか気持ちが沈む日もありますわな
少し良いものを食べて良く寝ましょうか
月並みですが効果はある筈 思い切って島津氏は割愛します
野伏せ(野伏せり、釣り野伏せ)と呼ばれる
偽装撤退から両翼伏兵の待ち伏せで三方包囲戦術は
日本ではあまりに有名ですが
モンゴル帝国の基本戦術とほとんど変わりないので
話をモンゴルに絞ります モンゴル帝国の欧州派遣軍の超有名な戦い
ワールシュタットの戦い(リーグニッツの戦い)
に話がうまく繋がるように
あれこれぐだぐだいってみます
ちなみにワールシュタットとは
死体の山、とか、死体の地、という意味です 当時のモンゴルの馬と弓と矢について
モンゴル騎兵の基礎である馬には
特徴がありました
例えば欧州の馬に比べて
小型で、足が長くない、
瞬発力はそんなにないけど持久走は得意
走ってる時に体の上下動が少ない
これらの特徴は
偽装撤退→伏兵待ち伏せによる包囲戦術の
偽装撤退に役立ちます
先行部隊がやられたフリをして退却して逃げる
モンゴルの馬は小型で瞬発力そんなにないから
追いかければあっさり追けると思って
大型の馬の騎兵で追う
しかし持久力に優れているので
なかなか追いつかない
大型の馬がへばったあたりで伏兵の待ち伏せで
包囲殲滅されてしまう 両軍騎兵が弓矢の射ちあいなると
またモンゴル側は特徴を発揮します
走ってる馬体の上下動が少ないので
それだけで命中精度が増します
さらにモンゴルの弓の特徴は
速射が可能なことです
欧州騎兵が急いでも1分で2発として
モンゴルは1分で5〜6発も放つ
さらにさらに
モンゴル軍の矢には毒が塗ってあるのです
急所に刺さらなくても刺さるだけで危険です さらにオマケですが
中国やイスラム王朝を征服してから
火薬や砲も使います
異次元の軍隊ですね、ほとんど カエサルのファルサルスの戦い
ベリサリウスのダラの戦い
これらにおいても騎兵による偽装撤退はありましたが
しかし小規模なものだった
モンゴル軍の偽装撤退は
もっと規模がでかい
偽装撤退→伏兵待ち伏せ包囲殲滅を
全軍規模でやるので あとそれから
モンゴル軍は多くの将軍が同じ戦術を共有し
さまざまな方面軍を派遣して多くの将軍がいて
みんなが基本となる偽装撤退を得意としてます
意思統一が図れててコンセプトを共有してるので
ミスりにくい、スムーズで練度が高い テムジン(チンギスハン)が創始した帝国は
まさに前人未踏の大帝国となりますが
決して力任せのゴリ押し軍隊ではなくて
極めて戦術・戦略に優れた知力溢れる軍でした 毒矢の話が出ましたが
この時代モンゴルと毒は切り離せませんw
まずモンゴル帝国初代の大ハーンである
テムジン(チンギスハン)ですが
彼が9才のとき父親が毒殺されてます
よくわかんないこといってますか?
もう一回
チンギスハンが9才のとき彼の父親は
敵対部族に毒殺されました
いかが? テムジンはモンゴル平原の遊牧騎馬民族の中で
ある部族の有力家系だったわけですが
テムジンがモンゴルの諸部族を武力で統一する前は
ずっと諸部族の間で戦いや殺し合いが続き
敵対部族の族長とかを毒殺したりしあったり
そんな感じで普通に毒を使ってました こんな逸話もあります
テムジンが若い頃、敵対部族との戦いで
敵の毒矢がテムジンの首に刺さり
彼の部下が急いで口で毒を吸い出した
とのことです
普通だったんですね、毒矢が モンゴル平原の中では毒矢は普通でも
彼らが世界帝国を築いて拡大する過程で
侵攻された国や民族はさぞ驚いたでしょう
しかも恐ろしいまでの速射しまくりで
かつ毒矢です
この軍が偽装撤退とか戦術を駆使するんです
ヤバすぎw あ、そうだ
モンゴル軍得意の偽装撤退を使えない戦いがあります
上陸戦です
元寇つまり日本侵攻ですね
海を渡っての上陸戦に感して
大陸王者はその強みを発揮できません
広い平原がないと騎馬戦術は発揮できない
上陸戦の話もいつかやりましょう
野戦陣地・塹壕戦
電撃戦
そのあとに上陸戦もやりましょうか https://imgur.com/gallery/Djefy
参考図を貼っときます
ワールシュタットの戦い(リーグニッツの戦い) ワールシュタットの戦い(1241年)
モンゴル帝国にとっては欧州侵攻の一局地戦
しかし欧州にとっては最終防衛戦の意義
モンゴル帝国軍
指揮官バイダル(チンギスハンの孫)
総兵力20000人(諸説あり)
ポーランド王国
神聖ローマ帝国
ドイツ騎士団
聖ヨハネ騎士団
テンプル騎士団
指揮官ヘンリク2世(ポーランド王)他
総兵力25000(諸説あり) 損害
モンゴル帝国、少数(詳細不明)
欧州連合、甚大(総指揮官ヘンリク2世は戦死)
結果
モンゴル帝国軍の圧勝 >>690
戦闘経過はこの図のまんまです
欧州連合軍の主力重騎兵が中央から攻め
モンゴル中央軽騎兵が偽装撤退
奥までお引き入れて左右の軽騎兵と合わせ
三方から包囲殲滅
欧州連合の後方の歩兵は退散 明日はクレシーの戦いを話します
イギリスとフランスが昔戦った百年戦争
イギリスが欧州大陸に攻め込んだ戦い
百年戦争が百年かかってしまった原因のひとつに
序盤におけるイギリス大勝利によって
イギリスがフランス領内に居座れてしまったことが挙げられます
で、クレシーの戦いです
フランスが誇る重騎兵軍団の正面突撃が
完膚なきまでに叩きのめされた戦いで
いまだに研究対象として有名です
イギリスはフランス重騎兵軍団を
どうやって壊滅させたのか?
イギリス弓兵の大活躍を明日話します 野戦陣地の父、塹壕戦の父、
などといまもって称されるコルドバ
ゴンサロ・デ・コルドバの生まれる一世紀前の
このクレシーの戦いこそ
野戦陣地のプロトタイプだったのでは?
と思います
騎兵の非騎兵(歩兵・弓兵)への優位性を崩壊させた
歴史の転換点に迫りたいと思います >>700の訂正です
誤・イギリス
正・イングランド
日本でイギリスというと一般には大英帝国ですね
まだそれより昔の時代です
イングランド王国 あ、モンゴル帝国のオマケ
モンゴルはふたつのイスラム王朝を滅ぼし
三つめは滅ぼせませんでした
現イラン付近のホラズム朝を滅ぼし
現イラク付近のアッバース朝を滅ぼし
チンギスハンの孫の名将フレグが
新たにイルハン国(イルハン朝)を開きます
現エジプトのマルムーク朝をも狙い
現シリア付近のアインジャールートで
マルムーク朝と戦います
アインジャールートの戦いです
モンゴル軍はなんと
マルムーク朝に偽装撤退戦術で破れます
これでモンゴルのエジプト攻略は頓挫
偽装撤退で勝ち続けたのに
偽装撤退で負けて領土拡張が止まりました
歴史の面白さですね わはは
マジメに調べ直したら間違いだらけ
誤マルムーク朝→正マムルーク朝
ほかにも
>>705の訂正
モンゴルは三つのイスラム王朝を滅ぼし
四つめは滅ぼせませんでした
現中央アジア付近のホラズムシャー朝を滅ぼし
現イラン付近のセルジューク朝を滅ぼし
現イラク付近のアッバース朝を滅ぼし
チンギスハンの孫の名将フレグが
新たにイルハン国(イルハン朝)を開きます
現エジプトのマムルーク朝をも狙い
現シリア付近のアインジャールートで
マムルーク朝と戦います
アインジャールートの戦いです
モンゴル軍はなんと
マムルーク朝に偽装撤退戦術で破れます
これでモンゴルのエジプト攻略は頓挫
偽装撤退で勝ち続けたのに
偽装撤退で負けて領土拡張が止まりました
歴史の面白さですね クレシーの戦い(1346年)
百年戦争初期の戦い
フランス北西部クレシー近郊
イングランド王国、兵力12000人
フランス王国、兵力30000から40000人
損害
イングランド、死傷数百人
フランス、死傷6000〜20000人
結果
イングランドの決定的圧勝 小さな山というか丘陵地ですかね
イングランド軍は陣を取ってました
そこへフランス軍が攻めに来たのです
兵力ではフランスが圧倒的優勢
フランスは自慢の重騎兵軍団が主力です
しかしこの戦いで勝敗を分けたのは
弓兵、陣地、地形などでした >>712の図をみて下さい
赤(ピンク)がイングランド
青(水色)がフランス
赤イングランドは小山の上で待ち構えてます
青フランスは上り坂を駆け上がる形になります
赤のKINGと書いてある後列は
指揮官エドワード3世の後詰めです
前列はBlack Princeとありますが
息子のエドワード黒太子率いる前衛です
(この人は異名がBlack Princeです)
前列の形に注目して下さい
真っ直ぐの真一文字ではありません
三角形に突出してる部分が数ヶ所あります
これがミソでした イングランドにも騎兵はいましたが
みんな馬から降りて歩兵化してました
三角形の突出の間、Black Princeと書かれてる所に
歩兵、歩兵化した騎兵、弓兵が配置
そしてその両脇の三角形の突出部には
弓兵を集めました
相手はフランス重騎兵です
近接されたらひとたまりもありません
だから杭を打って並べて、さらに
堀(落とし穴というより障害物の意味?)をいくつも掘ります
三角形も含む前列のすぐ前にズラーッと杭柵
その前にたくさんの堀 これはもう野戦陣地ですね、そう思います
日本における野戦陣地は
織田信長の長篠の戦いが最初です
世界における野戦陣地を最初に広めた人は
スペインのコルドバ将軍でして
この人は長篠の戦いより早い時代に
野戦陣地を明確な戦術として確立させました
ですが振り返ってみると
コルドバより約百年早いこのクレシーの戦いが
野戦陣地のさきがけだったのでは?
野戦陣地のプロトタイプということです 野戦と攻城戦(守る側は籠城戦)
この二つしかない時代が長らく続きました
古代中国の戦いを色々みると
野戦での陣地化もありますが築城なんですね
守りに徹した防御の堅い城を新たに築く
これはコルドバや信長の野戦陣地ではなく
もはや築城による籠城戦です
コルドバや信長の時代って火縄銃の時代です
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