柿ノ嵐 [無断転載禁止]©2ch.net
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ウソと偽りの境界は
ときとして曖昧なものといいます
信じられないような絶句ばかりの現実も
目覚めてみたらただの夢のような事実とか
とかく私たちは
こうあるべきという浮動感や
こうあって欲しいという虚無の中で
頑なに揺蕩っています
私はこれから
ある一連の
脳や心の健常性を示す狂気の思い出を
無根の事実を少しだけ混じえて
細々と話します
私は、かつて柿ノ嵐と呼ばれました
そうです
得体の知れない彼ら彼女らは
ほかに呼びようもない私を
柿ノ嵐と静かに指差して騒いだのです
さあ
よろしいでしょうか こんにちは
なかなか仕事が忙しいです
戦術のお話、とても興味深く勉強させていただいています
概念として応用できる洗練された智恵は美しいですね ありがとうございます
2001年からコツコツと調べた内容で
私自身、十年ぶりくらいに真面目に復習しつつ
シンプルさを目標に書いてます 夜にベリサリウスを話しますが
私自身のオカ板での思い出と戦術論の関係を
少しだけ 2001年9月に米国で同時多発テロつまり
WTC双子タワーに乗っ取られた旅客機が突入
数千人規模の死者が発生し
その黒幕を巡ってアフガン戦争
さらには大量破壊兵器疑惑でイラク戦争
激動の時代でしたが、、 私個人についていえば
2001年秋以降、何かに取り憑かれたように
国際政治、経済・金融、宗教・オカルト、
量子物理学、軍事(戦術・戦略中心)など
いくつかの全く異なる分野の独学を始めました
まるで壊れたアナログレコードのように
これらを死にもの狂いで独学しないといけない
そんな風な強迫観念に駆られて
まったく畑違いの知識を急速に昼夜を問わず
調べることになったのです 2002年7月には
自宅に謎の間違い電話が毎日多発し
私はオカ板で魔術師ダフネ女史の除霊を受け
以降はオカ板に入り浸る年月がスタートしました 当時のオカ板は現在よりも住人数が多く
様々な既存宗教・新興宗教・魔術師・拝み屋
または自称霊能者がやまほどいて
かつ自称絶対神・創世神、自称大天使、
自称救世主、自称悪魔などで溢れており
オカ板の至るところで呪詛戦・思念戦が
日々当たり前のように展開されていました
極めてカオスな板でした 私も御多分に洩れず2003年後半からは
それらの不気味な人たちに混じるようになり
2004年〜2007年の間はほぼ毎日
部活動のように対人思念戦に耽りました 皆さん恐ろしいことに
史上最高やら宇宙最強やら絶対的超越者やら
もうたくさんいらっしゃって
例外なく上から目線で高次元の高位者の立場で
私のことを低次元の明らかな格下と見下して
扱ってきましたので
私もそのゲーム設定に乗った訳です 私は惜しみなくふんだんに戦術論を用いて
オカ板の恐ろしい人たちに対峙しました
戦術の活用法として多々ありましたが
代表的なものは騎兵運用でした
戦術の基本といえる騎兵運用ですね
我こそは高次元の絶対的格上の人たちに
私は虚数次元を騎兵運用になぞらえました 相手がどれだけ高次元(自称)だとしても
整数次元なら棒一本にのってます
縦線1本と横線1本で直交させて十字にすると
直交する点が0ですが
横線の右半分に正の整数が全部含まれます
横線の上半分は正の虚数世界
横線の下半分は負の虚数世界
です どれだけ高次元の住人でも
横線の右側の住人ということです
それに対して私は虚数世界(虚数次元)を使い
あたかも騎兵運用のように
迅速な機動による側面攻撃、包囲、迂回、突破
いろいろやり放題でした
戦術における伏兵も
小数点や分数の次元に伏兵を配置と想定
当時、オカ板には
非整数次元という概念を駆使する者が
私以外にはいませんでした
高位者が絶対に強くて絶対に偉い
その先入観やら固定観念に皆さん固執してました
私は非整数次元のことは常に黙ってました 2010年〜2013年くらいに
オンギバグゼンやらワグザリベスターなど
意味不明な名前の宇宙人をスレタイにして
単発のクソスレを立てる人がいましたが
オンギバグゼンに従属せよ
奴らは非整数次元を支配する
とかはっきり非整数次元を文字にされたので
私はある時に
このスレ主さんとメールのやり取りをして
お願いですからやめて下さいと頼みました
中京地区在住の40代男性で
最初は全く信じられず反発してましたと
なぞの告白を受けます(何だったんでしょう)
2014年には私自身が非整数次元のネタを
隠さなくなりネタばらししましたが
注目を集めることはありませんでした
虚数次元で騎兵運用
小数点を含む次元で伏兵
これらは本日が初公開であります
どうでもいいっすねw 私の彼女のために書いてるので
やめようとすると怒られるんです ヌンチャクのヌに例えると 一本でもニホン製って片方振り回されてるGRIPS
nunuってインプットするとヌヌって出てくる仕様のモニターばかり見せられて
猫にマタマタ御冗談をって笑われて その後 極端なカメアタマ見せられて
マタマタのあたまの形の何処が御冗談なのか それがもし本当の御冗談だっら
偶偶だって御冗談みたいな描き方なんじゃないのって思って
11画と11画で22画の漢字みてたら ・・・・ なんか嫌になって来て
いま13画のところの漢字見てるところ 明日仕事が午前だけなので
明日書きます
ベリサリウスの戦術って
多彩できめ細やかで説明めんどいんです
それまでのあらゆる天才たちの戦術が
あ〜ベリサリウスに比べて単純だったな〜
と感じるくらい
古代最高の名将は
アレキサンダーまたはハンニバル
中世欧州最高の名将は
ベリサリウス
といわれますが20世紀の戦史家たちが
実は史上最高の名将ってベリサリウスじゃね?
と再評価したくらいです
野戦、攻城戦、籠城戦、戦略眼
いずれも最高クラスで弱点がありません
常に劣勢な兵力で勝ち続けました
ベリサリウスの生涯戦績はなんと
54戦して53勝1敗です
化け物です 上の図の補足
ベリサリウスは
歩兵部隊の前面に横向きに壕を掘り
さらにその横向き壕から縦向きに数本の壕を
この縦向きに壕が敵主力歩兵を分断
https://imgur.com/gallery/DLzWk
https://imgur.com/gallery/jrO3V ベリサリウス
505年〜565年
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の将軍
ユスティヌス1世に仕えた
生涯戦績54戦して53勝1敗
(唯一の1敗は味方の裏切りによるもの)
ササン朝ペルシア、ヴァンダル王国、東ゴート王国などと戦った
ユスティヌス1世の時代に強引なまでの領土拡張政策がとられ
結果、分裂前のローマ帝国領の範囲をほぼ復活
ビザンツ帝国の領土的最盛期となった
このユスティヌス1世の地中海再統一を軍事的に支えたのかベリサリウスで
周辺の国々への苛烈な戦いは
常に寡兵による大軍への挑戦であり続けた さてベリサリウスの戦いの中では有名な
ダラの戦いをピックアップします
ビザンツ帝国は多くの周辺国と戦いましたが
東側には当時世界を代表するササン朝ペルシアがあり
そのササン朝との国境付近での戦いに
まだ24才の青年将校が派遣されます
それがベリサリウスです ダラの戦い(530年)
ビザンツ軍
総兵力25000人、指揮官ベリサリウス
ササン朝軍
総兵力50000人、指揮官フィロツ
(初日は4万人で2日目に1万人の増援到着) 若き24才のベリサリウスは
この指揮官としてのデビュー戦で
いきなり非凡すぎる指揮を披露します
ベリサリウスはこのダラの戦いで、
重騎兵、軽騎兵、弓兵、主力重装歩兵、伏兵
さまざま兵種を併用、縦・横の壕を利用し
かつ野戦と籠城をミックスするという
新人指揮官とは思えない離れ業をやります
結果はビザンツ軍の圧勝に終わるのです このときビザンツ軍の25000人のうち
徴募したての新兵が7000人です
兵力差は実質的に2倍以上といえます
ベリサリウスはこれらの新兵を
ダラ砦の内部に弓兵として配置します
そしてダラ砦の前面に経験ある主力歩兵
その両翼に重騎兵と軽騎兵 まさにここから、後に中世最高と評された
魔術師ベリサリウス(恐妻家)のチート披露が始まるのです ササン朝軍の強みは
歴代イスラム軍特有の騎兵戦力の強さです
騎兵運用についてノウハウの蓄積は刮目するほどで
ビザンツ側はまともにササン朝騎兵と戦っても
あまり勝算はなかった
そしてさらにこの時代のササン朝軍は
伝統の強力騎兵と歩兵との連携が売りでした
ベリサリウスは
このササン朝の騎兵と歩兵の分断を狙います そのための縦・横に掘った壕が
効果を発揮します
ササン朝ペルシア軍の中央の主力歩兵が
正面から突入しますが
何本も縦向きに壕が掘ってあるため
ペルシア歩兵は細かく分断され
横の連絡が取れなくなります
そこへダラ砦から弓兵が矢を放ちます
ペルシア歩兵はビザンツ歩兵とまともに戦えず
後方に撤退します
ササン朝ペルシア指揮官フィロツは
おそらく中央主力歩兵を無理に戦わせると
縦・横の壕や弓兵の矢に手こずってる間に
ビザンツ両翼騎兵が左右から包囲してくる
そのように予測したのでしょう
だからこそあっさり中央歩兵を退却させた
そしてイスラム系伝統の必殺騎兵で
両翼から突入させて決着をつける
そのように考えたことでしょう
しかしその両翼騎兵突入こそが
ベリサリウスの罠だったのです さてダラの戦い
ここからが本番です
ビザンツ中央が罠であり勝負は両翼騎兵
そう考えたペルシア指揮官フィロツでしたが
その両翼騎兵戦こそがむしろ罠でした
二重の罠ですね
ベリサリウスはなんと
左翼と右翼で全く異なる戦術を仕掛け
歴戦のペルシア騎兵を両翼とも破ります
ビザンツ左翼では重騎兵と軽騎兵の併用
しかも丘に隠してた伏兵が活躍
ビザンツ右翼でも重騎兵と軽騎兵の併用
こちらは偽装撤退から奥深く引き込んで
背後や側面からも包囲
左右で違うことをして両方勝つっていう >>572の図を見て下さい
ビザンツ右翼v.s.ペルシア左翼からいきます
四つ図がありますが、まず左上です
ペルシア左翼騎兵がビザンツ右翼に突入
次に右上です
ペルシア左翼騎兵に押されて
ビザンツ右翼の最初に配置されていた騎兵が後退
もちろん予定通りの偽装撤退です
ペルシア騎兵はどんどん前進します
そこで
正面主力歩兵の背後に待機していた重騎兵が
ペルシア左翼騎兵の側面を攻撃
また歩兵右側の前にいた軽騎兵も動いて
ペルシア左翼騎兵の背後を攻めます
最初からいて偽装撤退した騎兵も
反転して反撃に転じます
ペルシア左翼騎兵は
三方向から包囲され挟撃されてしまい
壊滅して撤退します
ビザンツ右翼サイドは完勝です >>572の図で今度は
ビザンツ左翼v.s.ペルシア右翼いきましょう
左上の図で
ペルシア右翼騎兵がビザンツ左翼に突入
次に右上の図で
丘の後ろに隠れていた伏兵の軽騎兵が
スピードを生かしてペルシア騎兵を側面攻撃
さらに歩兵左側の前にいた軽騎兵も参加
こちらも三方向から
ペルシア右翼騎兵は撤退します
ビザンツ左翼サイドも完勝 >>572の左下そして右下です
勢いに乗ったビザンツ両翼騎兵は
ともに前方に突進
邪魔する敵騎兵はいません
ペルシア中央の主力歩兵は
ボコボコにタコ殴りされます 重騎兵と軽騎兵の併用
スピードを生かした軽騎兵の機動
偽装撤退
丘に隠した伏兵
三方向からの包囲
野戦と籠城のミックス
新兵の扱い方
縦・横の壕の活用
これ、この人のデビュー戦ですからね
信じられません
過去の歴史的天才たちの戦術と比較しても
遥かに複雑できめ細かい
読みが深い、裏の裏まで読んで何重もの罠
ベリサリウスは人間じゃないです 騎兵運用をほぼ完成させちゃった人
と数日前に申しましたが
理解して頂けたと思います
ほぼ、と書いたのは
後のナポレオンの中央突破からの片翼包囲
これで騎兵運用ネタは出尽くした感が
ナポレオンは当然ながら
アレキサンダー、ハンニバル、ベリサリウス
などから影響を受けてます 明日は
フリードリヒのロッテンの戦い
(一般に斜行戦術というと実はこれです)
そして
ナポレオンのアウステルリッツの戦い
これいきましょう フリードリヒとナポレオンを話したら
斜線・斜行・騎兵運用はひと区切りかな
その次は偽装撤退やりますか
モンゴル帝国の名将たち
チンギスハン、スボタイ、バトゥなど
それから
日本の島津家あたりの話ですね 今日はロイテンの戦いやりますが
先に参考図を貼ります
https://imgur.com/gallery/1N8sq
現在のドイツがドイツであるのは
一つにはフリードリヒ大王のおかげです
ロシア、オーストリア、フランス、スウェーデン
強力な周辺国に囲まれた立地で
ドイツの前身といえるプロイセンを死守した人
それがフリードリヒ大王です
プロイセン全土にジャガイモ栽培を奨励し
寒冷な痩せた土地の食料事情を改善
いまのドイツ料理があるのはこの人のおかげ
生きた年代はズレでますが
ナポレオンが師匠と仰いでました
プロイセンに勝って侵攻したナポレオンが
かのフリードリヒ大王がもし今生きていたら
私はプロイセンの土地を一片も得られなかった
と発言しました
リスペクトに溢れてますね フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)
1712年〜1786年
第3代プロイセン王
以下wikiより引用
優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、
啓蒙専制君主の典型とされる。
また、フルート演奏をはじめとする芸術的才能の持ち主でもあり、
フランス文化を知り尽くすなど学問と芸術に明るく、
哲学者のヴォルテールと親密に交際し、自ら書を著し哲人王とも呼ばれ、
功績を称えてフリードリヒ大王と尊称されている。
ドイツにジャガイモ栽培を広めたことでも知られる。 ロイテンの戦い(1757年)
七年戦争における代表的な会戦
フリードリヒ率いるプロイセン軍が
兵力2倍の劣勢を覆し
オーストリア大公国(ハプスブルク君主国)を破った戦い
フリードリヒ大王による「斜行戦術」による勝利として名高い 七年戦争
1754年〜1763年
(↑七年じゃないだろ!といわれそうですが実際の戦闘は1756-1763)
以下wikiより
ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンを
プロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因だが、
そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。
イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)
に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、
戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。 七年戦争(続き)
この戦争の前にフランスとオーストリアは、
台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ。
しかし、戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡と化し、
イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、
オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、
ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった
補足
フランス弱体化により北米のフランス領がイギリス領となり
のちのアメリカ合衆国誕生の遠因になったとか
フランス王政弱体化から後のフランス革命の遠因になったとか
世界規模の戦争なので「世界大戦」という言葉が最初に使われた戦争とか、
いろいろあります 七年戦争(続き)
プロイセンとイギリスが同盟を組んで
その他の列強全部を敵に回して戦ったのですが
イギリスは島国で離れてますので
欧州大陸の戦域についていえば
プロイセンが周辺列強国すべてを敵に回した戦争です
フリードリヒおよびプロイセンにとっては絶望的な戦争でした 再びwikiから引用
墺仏露の3国に加えてスウェーデン、ザクセンなどドイツの諸侯も加えると、
敵国の人口は8,000万にもなり人口400万のプロイセンにとって絶望的な戦いだった。
フリードリヒ2世は、
序盤のロスバッハやロイテンにおいて巧みな戦術で自軍より倍以上の敵軍を破ったものの、
孤立同然のプロイセンの兵力は消耗し続けた。
1757年コリンの戦いで大敗した後は守勢に転じ、
1759年のクーネルスドルフの戦いではフリードリヒ2世自ら敵弾にさらされて上着を打ち抜かれ、
乗馬は2頭まで撃ち倒されて敗走している。
この時の大臣宛の手紙には「これを書いている間にも味方はどんどん逃げている。
私はもうプロイセン軍の主人ではない。全ては失われた。
祖国の没落を見ずに私は死んでいくだろう。永久に。アデュー」と書かれている。
フリードリヒ2世はその後、残存兵力をまとめてどうにか態勢を立て直すが、
苦しい戦いは続き、1760年10月にはとうとうオーストリア軽騎兵がベルリンに迫っている。
イギリスの軍資金援助も打ち切られ、フリードリヒ2世は自殺を覚悟したが、
1762年1月5日、ロシアのエリザヴェータ女帝が急死すると、
甥で後継者のピョートル3世はフリードリヒ2世の崇拝者であったため、
奇跡的にロシアとの講和が成立した。
さらに西ポンメルンで苦戦を強いられていたスウェーデンも、
フリードリヒ2世の妹であるスウェーデン王妃ロヴィーサ・ウルリカの仲裁により、
同年5月に講和する。
疲れ果てていた列強はこれを機に兵を収め、
孤立したオーストリアに勝利を収めたフリードリヒ2世は
1763年2月フベルトゥスブルクで和議を結びプロイセンのシュレージエン領有は確定する。
引用おわり 敵国ロシアの女帝が急死、後継の新ロシア皇帝がフリードリヒ信奉者だったため
奇跡的にロシアと講話が成立
ここちょっと補足しましょう
ロシア新皇帝はフリードリヒの大ファンでした
フリードリヒの軍事的天才に憧れていて
「フリードリヒさん、ぱねぇっす」状態の崇める対象でした
なので自分がロシア皇帝になって真っ先にやったことは
フリードリヒ率いるプロイセンと戦争をやめることだったのです
まさに奇跡ですね
ロシアとの講話がなかったらプロイセンは滅亡してました
フリードリヒは絶望で自殺寸前だったし ちょっとここで話を変えます
なんで6世紀のベリサリウスから18世紀のフリードリヒ2世に
時代が一気に飛んでしまったか?
それはヨーロッパにおける中世が原因です
西ローマ帝国滅亡あたりから、ルネッサンスや宗教改革が起こる以前を
だいたい中世というわけですが
ルネサンスが14世紀〜16世紀ですので
ざっと500年くらいからルネサンスまでが中世
ルネサンスからは近世と 中世のごく初期はビザンツのベリサリウスが登場しましたが
その後カトリックによる宗教支配で学問・芸術が抑圧され
戦術論も停滞期に入ってしまいます
それでベリサリウスからフリードリヒまで
あんまり話したいことがないんですね
後日、モンゴル帝国の欧州遠征軍の話で
ワールシュタットの戦い(1241年)が出るはずですが
これは中世欧州軍よりもモンゴル軍が主語になる話です
フリードリヒは、ルネサンス以降の欧州で戦術論を復活させ
その後登場するナポレオンの師匠になったわけです ルネサンス以降でフリードリヒ以前の軍事的天才いうと
スウェーデンのグスタフ・アドルフがいますが
この人もすごいんですが、今回は割愛します さて、本題のロイテンの戦いです
ロイテンの戦い(1757年)
プロイセン軍、総兵力35000人
オーストリア軍、総兵力70000人
結果
プロイセン軍、死傷6000人
オーストリア軍、死傷10000人、捕虜20000人
フリードリヒ2世率いるプロイセン軍の圧勝 >>599の図をみて下さい
オーストリア軍の横陣に対して囮の歩兵を正面やや左に向かわせつつ
プロイセン軍は、歩兵・騎兵・砲兵すべての兵種を含むほぼ全軍を
斜め右に向かって斜行します
これは誰も考えたことがありませんでした アレキサンドロスのマケドニア、思い出して下さい
アケメネス朝ペルシアを破ったガウガメラの戦いですね
あれは騎兵部隊のみが斜め右に斜行してましたが
このフリードリヒの斜行戦術は
なんと騎兵のみならず、歩兵や砲兵も斜行するんです ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています