「いい人」と「いい選手」は、必ずしもイコールではない。1対1の勝負では、時として「相手を殺(あや)めてでも勝つ」という黒い感情が必要になる。善良な者、
クールな者が畳の上で人格を変えるのは、教えられて身につくほど生やさしい作業ではない。
先日行われたグランドスラム(GS)東京大会で、私が指導する100キロ級の飯田健太郎(19)=国士舘大1年=は7位だった。若さに似合わず冷静に試合を
運べる聡明(そうめい)な選手だが、闘志を内に秘めたまま試合を終えた観がある。
優勝した韓国選手との準々決勝は、延長戦で2つ目の指導を取られての負け。内容で引けを取ったわけではない。わずかでも優位を訴えようとする相手に比べ、
「何が何でも」という押し出しが欠けていた。
国士舘高時代に個人や団体でタイトルを手にした早咲きの俊英で、2月のGSパリ大会では、シニアの有力選手を破って優勝した。一昨年秋から全日本男子の
強化指定も受けている。
飯田の入部でわが国士舘大柔道部も引き締まった。練習に取り組む姿勢は真摯(しんし)で、悪評を聞いたことはない。4年生の中には「あいつを見ていると
応援したくなる」との声もある。「いい人」の典型ともいえる飯田に、「相手を殺めてでも」という変節を教え込むのは至難だろう。
実力はすでに大学のレベルを超えているものの、他の学生と同じ意識、同じ練習、同じ生活では強化選手の一人で終わってしまう。「お前たちとは違う」とい
う強烈な自負があっていい。
大学のOB会に出ると、先輩方からは「学生時代の桂治の方がすごかった」との言葉をいただく。井上康生さんという巨人の背中を追っていた私は、周囲に狂気の
沙汰と思われようと、練習の量も中身も高いハードルを自分に課したという自負がある。先輩方の評価は、勝つために私がたぎらせた執着心の残像かもしれない。
それを思うと、飯田はまだ押し出しが足りない。練習の密度も試合の中身も「こいつはすごい」「どうやっても勝てる気がしない」と周囲を黙らせるものが欲しい。
2020年東京五輪まで2年半余り。飯田が五輪代表をどれだけ実感を伴う目標として思い詰めるか。私も「金メダルを取らせる」という思いをどこまで燃やせるか。
選手と指導者、双方の思いが一致しなければ実を結ぶはずもない。
選手の人生を預かることは、指導者にとってこの上ない重圧との闘いでもある。私を頼り、選んでくれたからには大成させたい。まずは「いい人」からどう衣替えさせるか、
思案している。

【鈴木桂治 柔のすゝめ】「いい人=いい選手」にあらず
http://www.sankei.com/sports/news/171207/spo1712070024-n1.html