たとえビデオ判定の導入によってミスを減らすためのシステムが確立されてもそれは外因でしかない。そうではなく自らの弱さ、内に目を向け誤審と葛藤してきたからだ。
やがてその思いは、後輩に、五輪をはじめ世界で頂点を目指す若手に、どうしても伝えたい教訓に変わっていく。
シドニーに続くアテネ五輪では、男子柔道は3つの金メダルを獲得したが、世界的な潮流も、「組んで投げる」といった日本の正統にも変化は生まれていた。北京五輪で
日本男子が獲得した金メダルは2つと減った。斉藤仁(15年に54歳で死去)は北京を最後に監督を辞して篠原に後任を託した。
「もう一本」の心届かず 篠原さん、五輪監督で金ゼロ
代表監督になってからも心の大切さを訴え続けた(08年12月の嘉納治五郎杯、東京都渋谷区)
負けてもいいから自分から技かけろ
ロンドン五輪を目指す日本男子監督に就任した後の稽古では、伝えたい何かがあるはずなのに、「コラ」「アホ」「ボケ」が飛び出す。不器用な男のスタイルは、若手には
響いていないようにも映った。科学的なトレーニングも、データを基にしたコンディショニングも、選手のモチベーションを上げるメンタルマネジメントもない。ひたすら武骨に、
限界まで追い込めと求める厳しい稽古だ。しかしそれでも、選手を叱責しているだけには聞こえなかった。
心技体は最初にくる「心」で引っ張れ。
負けてもいいから自分から技をかけろ。
シドニーから8年が経過していたが、それでも監督の心は現役にあったのかもしれない。コラ、アホ、ボケ、とは目の前の選手に後悔させたくない一心でかけている愛情であり、
本当は自らにも浴びせた言葉なのだと聞こえた。
ロンドンを前に「ランキング制」が導入されたが、日本の対応は遅れた。試合、大会が増え続けるなか、月1回の代表合宿を行い、厳しい稽古を続けたが成果は出なかった。
就任翌年の世界選手権はついに金メダルゼロ。特に最重量級における大不振は、文字通り、その重みの分だけ不振にのしかかった。12年のロンドン五輪、日本男子柔道は、
史上初めて金メダルを獲得できないまま終わった。
今、仕事で代表合宿を訪ね、自分とともに一時代を築き、ロンドンではコーチでもあった井上康生代表監督(40)の指導法の取材もする。距離を置いて現場を見直すと、
選手の指導とは、時代と、それも短いスパンで変化する時代の流れと選手の気質を敏感に悟って、対応していかなければならないのだと実感するという。井上の指導には、
それがあるが、自分にはなかった、と。
「ただ根性論を説いただけでしたね。でもオリンピックのような舞台で金メダルを競う相手は、技術、体力、すべてがそろっている。そこまでいったら、もう何ひとつ差なんて
ないんです。だったら何で相手に差をつけてメダルの色を分けるの? 気持ちしかない。自分は、馬なら道産子でした。でもああいう馬が、厳しい先生方の指導と稽古で
目覚め、とことん磨いてもらって、サラブレッドにはなれなくても芝を走るレースには出られたんですから。反骨心を持ってほしかったけれど、十分に伝えられなかった」
初めて立った五輪の舞台では、世紀の誤審に泣き、指導者となって戻った唯一の五輪で今度は史上初めて金メダルを獲得できなかった監督となる。
「駄馬がレースに出るまで鍛えてくださった先生方、選手、周囲に恵まれる運はありました。でも結局オリンピックに縁はなかったんでしょうね」
喜ばしい答えではなくても、長い時間自分と向き合い得た答えを、篠原は大切そうにそう表現した。

「もう一本」の心届かず 篠原さん、五輪監督で金ゼロ
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