2000年シドニー五輪で銀メダルに終わった後、現役を引退した篠原信一(46)。母校の天理大で指導者の道を歩み始めて間もなく、日本代表監督に任じられる。
海外勢の猛烈な追い上げにさらされるなか、選手たちに厳しい稽古を求めるが、「心こそ大切」という篠原の思いは届かない。迎えた12年ロンドン大会で、篠原率いる
男子柔道は初の金メダルゼロとなった。(前回は「心技体『心が足りなかった』 篠原さん五輪決勝の悔恨」)
00年シドニー五輪柔道男子100キロ超級で起きた「世紀の誤審」で銀メダルとなった篠原信一は当時、「弱いから負けた」と短くコメントした。誤審は今なお、柔道界の
みならず日本の五輪史、スポーツ界に残る悔恨である。
しかし、勝負の極限で繰り出した「内また透かし」を見逃した審判への不服も、金メダルを争ったダビド・ドイエへの恨みがましい言葉も一切口にしなかった勝負師の潔さは、
誤審と同じ重みで語り継がれてきた。
19年がたち、その姿勢に変化はないが、心の澱(おり)を一滴一滴ろ過するかのような作業を経て、当時のコメントにようやく、しかしまたも短い言葉を付け加えた。
「あのときの自分には技も体もあった。けれど心が足りなかった。弱いから負けたと確かにそう言いました。でも、心が弱かったから負けた、それが正確なコメントでしたね」
野村忠宏が感じた「人間力」
忘れられない光景があるという。
表彰式が終わり、ロッカーに戻るとタオルをかぶって「何のためにキツイ練習に耐えて来た? あそこでもう一回(ドイエを)投げにいくためだったんじゃないのか」と
自問自答しながら、涙が止まらなかった。長引いたドーピング検査を終え、ようやくロッカーを出ると、柔道競技最終日のため早くも会場内の撤収作業が始まっていた。
騒然とする通路で、荷物を持ちポツンと立っていた後輩を見付ける。チーム関係者も、役員も去った会場で、何時間も1人で待っていたのは、天理大後輩で、60キロ級
金メダリストの野村忠宏(44)だった。頭を深く下げた後輩に「先輩、お疲れさまでした」そう言われた。
「ヒロ(野村)が1人で待っとってくれたんです。自分にどう声かければいいんだって、あんな試合の後ですから、そりゃあアイツも困っとったでしょうね。でもあのとき、ヒロの
顔見てハッと我に返った感覚になれましたね。そうだ、もう切り替えよう、って」
軽量級初の連覇を果たした後輩に、悲運の銀メダリストはすぐ声をかけた。
「ヒロ、待っとってくれてありがとな。腹も減ったし、じゃメシ、行こか!」
会場の外で待っていた篠原の友人たちと、焼肉店に出掛けた。野村はこのシーンについて、以前にこう話している。
「食事中も誤審の話は一切しなかったし、誰にも気を使わせないように振る舞ってくれた。金メダルに一番近いといわれた先輩ですが、負けたときこそ人として、柔道家
としての人間力が分かると教えられた」
誤審という不条理のなかで、篠原は周囲ではなく「自分」に目を向けた。
ビデオ判定導入のきっかけに
勝負師のこうした振る舞いが歴史に刻まれるとともに、誤審を機にある制度も残された。
国際柔道連盟(IJF)は後に「ケアシステム」と呼ぶビデオ判定制度を導入する。2台のビデオカメラを用いて、2方向から撮影し判定をサポートする。画像はコンピューターに
入り、状況判断の正確性を高めるものとして、07年ごろから各大会で使用され、10年には審判規定として改正された。
五輪で起きたミスは、そもそも篠原がかけた独特の「内また透かし」を実際に見た経験のある審判は少なかったからではないか、ともいわれた。柔道界が目指す国際化と
引き換えに、審判レベルの格差も誤審の一因とされた。シドニー五輪後、審判技術に関する研修会の回数は各大陸、国際連盟で格段に増えた。
「何でもかんでもビデオが解決してくれるわけではない」と、篠原は言う。
「柔道の技には流れがあります。例えば日本では、ただ相手を背中から寝かせればいい、などとは指導していない。技の切れ味や勢いも完璧な形を目指し、ビシッと投げろ
と指導する。だから、時には投げた方が勢いあまって先に倒れる場合もあるかもしれない。ビデオを見直すだけでは、それが見逃される危険もある」
そう言うと、少し厳しい表情を浮かべる。