昔、NHKで、中国の弓の達人の話が人形劇でやっていたことがある。
この話は非常によくできていて、その内容は悟りの話と言ってもいいものだった。

とあるところに、弓が上手くなりたい若者がいて、その人が夢の名人に弟子入りした。
最初は小屋の中で、ノミを糸で吊るしたものをズッと見つめろと言われ、
何日もノミを見つめていると、段々馬のように大きく見えてきて、それで弓を射ったら、
ノミの心臓を射ち抜くことが出来た。

それからだんだん自信が付いてきて、最後は調子に乗って、師匠が出がけから帰るところを待っていて、
遠くに見えてきた師匠めがけて弓を射始めた。
師匠も負けじと応戦し、矢が空中で衝突する。
それを何度か繰り返すと、とうとう師匠の矢が先に尽きてしまった。
最後の矢を師匠は口でガツッと咥えて受けた。

師匠はそんなに弓が上手くなりたいのかと、あきれ果てて、それならばと、
山の上に住む仙人のような弓の名人を紹介する。

弓の名人は最初に若者に、山頂の崖の端にある不安定な石の台の上に立って、
飛んでいる鳥を射落とすように命じる。
これは簡単と、若者は岩の台の上に立って、鳥を射ようとしたが、岩が今にも落ちそうな崖の端で、
不安定に揺れ始めた。
若者は脂汗を流し、鳥に狙いを定めようとするが、なかなか照準を合わせることが出来ない。
そしてとうとう、鳥を射落とすが出来なかった。

つまりこの話は、思考や、価値判断の相対分別、想いに捉われていては、
人間は何も出来ないということを物語っている。


そして若者が名人になって、年老いて、ある時知人の家を訪ねたとき、
玄関に弓が掛かっているのを見てこう言った。

「はて、これは一体何ですか?」

知人が、
「それは弓ですよ、お忘れになったのですか?」 と。

弓と完全に一体となって、その間に思考や想いの入る隙間が無い状態・・・
完全に一体となっているから、区別が無く、対象として捉えることがない。
区別し、対象として捉えるのは、思考の働きだ。