中道の話をしよう。

仏教の教えで非常に重要なのが、中道の概念だ。
中道=悟り と言ってもいい。

中道と似たような言葉で、中庸という言葉がある。
さて、これは何が違うのか?

中庸というのは、「ほどよい」とか、極端な物事を避け、中和した中間のような
イメージで語られることが多い。

一方、中道というのは、両極のどちらにも捉われない・・・、 両極のどちらにも、
微塵も捉われない・・・ ということで、そういう意味で、
どちらにも捉われないという意味での、「真ん中」ということを示している。

中庸は、物理的な中間が存在するイメージ。
一方、中道は、微塵もどちらにも捉われない、心の状態を表している。

中庸は、ほどよい、というのも、中間も、両極を前提にしなければ成り立たない。
両極を意識しなければ、その中間というのは見いだせない。
両極を気にしている状態なわけだ。

しかし、中道というのは、両極に全く捉われないため、両極に差が無くなる。
たとえば、雨にも捉われなければ、晴れにも捉われない、
こういう状況において、そういう人は、雨でも晴れでもどちらでもいい、
ということになる。
つまり、両極が平等になるわけだ。

平等ということはどういうことかというと、両極の差が無くなる・・ ゼロになる、
ということで、「両極」という相対的な概念が、消えてしまう。
相対というのは差があって初めて区別をつけられるが、
差が無ければゼロで全く同じだ。

なので、 中道 = 平等 = ゼロ(空) ということになる。

晴れと雨の区別がつかなくなるほど捉われなくなれば、その両極の差を示す言葉は空虚になってしまう。
つまり、空になってしまう。
相対的な両極が空になって一つになって差が無くなれば、それは一つになったことと同じだ。
空っぽというのは一つになったということだ。

人は常に「良し悪し」で物事を分別しているが、今に統一して分別が無くなれば、
この「良し悪し」は平等になる。
たとえば、病気でも健康でもどちらでもいい。
全く捉われなくなる。

そうして、今に統一したなかから、何もにも依存しない、
本当の幸せがあふれ出してくる。

人は大抵、何かに依存して、幸せを成り立たせている。
お金に依存した幸せ、 恋人に依存した幸せ、 能力に依存した幸せ、
容姿に依存した幸せ、 欲が楽しむことに依存した幸せ、
みな「良し悪し」の相対分別の「良し」の方に依存してしまっている。
良し悪しは切り離せて、どちらか一方を求められると思っているが、真実は、
この二つは一つだ。
「良し」は「悪し」に相対して成り立っている。
だから、「良し」を求める力が強いほど、また「悪し」も大きくなって現れてくる。
真実に幸せなのは、この両極を越えることだ。