本居宣長は言葉に関して、「姿は似せ難く、意は似せ易し」と述べた。

少々乱暴な譬えになるが、
俳優が運動選手を演じる場合を考えてみよう。

俳優は長い研鑽の末、様々な役柄に対して、感情移入できる。
ところが、いかなる天才的名優といえども、
サッカー選手や、アイススケート選手の太ももを真似ようとすれば、
自らに十数年に渡る選手同様の激しい訓練を課さない限り、あの偉大な太股は育成され得ない。
貧弱極まる体躯で、いかに見事にその精神を具現し得たとしても、
観客はそこに本物の運動選手を見るだろうか。
逆に、彼らのような鍛えこまれた特殊な肉体を有している人物には、
栄養失調の重病人の役柄は、演じ切れないだろう。

さらに言えば、こうした明らかな肉体的差異のない場合、
例えば、製造業の従業員、教師、研究者などを、
言葉によらずに演じ分けることがいかに至難の業であるか。
偉大なる演技者とは、こうした「姿」として存在する埋めがたい溝を、
自らの技量によって僅かでも埋めんと努力する人を指すのであろう。