松本恵二さんの思い出 [転載禁止]©2ch.net
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カートの店が教習所のそばにあったときに見かけたことある。
道路挟んだ向かい側にコンビニがあってよく買い物してたから これ子供の頃何回もTVで見たけどよく死ななかったよなって思う。
キャビンのCMはオーストラリアのタイヤテスト編が好きだったなあ。
https://youtu.be/Flq3frwxpVA 道上もFacebook更新してるね。
ほんとあの人ああ見えていい人やったんやね あれは松本恵二さんが寿一のことをジュンイチって呼んでたからやで >>88
強面と丸顔の2人のトラック運転手
「おっとココから先は俺らが通さねぇぜ」 >>99
もうじきガンさんが駆け付けるから、待ってな! 富士GTの帰りに三島駅で倒れてドクターヘリで伊豆長岡の順天堂病院に搬送されてたのか、知らなかった。 風貌からいろんな噂があるけどクォーター、
昔のTV番組で自ら語っていたよ、 アグリがフランスのクォーター
ケイジはイギリスのクォーターか キャビンのCMで紫煙を燻らせる姿は本当にカッコよかった。
ご冥福をお祈りします。 >>108
こんな酒好きだったのか。
愛煙家のイメージしかなかったわ。 岩城滉一がF3000全戦予選落ちした90年
予選中に励ましてやってたの覚えてるな >>110
それあったな〜
岩城は、繰上げかなんかで1回だけは決勝出られたけど
この年からGCが無くなった煽りで、エントリーは35台近くまで膨れ上がった
決勝台数を28台に増やしたが、毎回7台は予選落ちしていた >>111
有力チームはTカーまであってサーキットにはヘリコプターで来るというバブル全盛の時ですね >>110
>>111
あの時代にF3000出るって無謀だな 毎週のようにどこかでビッグレースがあって、タイヤメーカーが音を上げた為に
89年限りでGCが廃止に
それが無ければ、岩城や池谷などは予選落ち必至のF3000は回避していただろう
GCなら、拡大したとはいえ富士の4戦だけで済んだし 岩城がF3000に乗ったのは先にマッチがF3やってたから
メンツを賭けてのことだったんだろうけどトホホな結果に >>115
マッチが乗るより前から岩城はF3に出てたが。
なお成績は中段以下。
前走のドライバーのブロックに腹を立てて、レース後にぶん殴ってライセンス停止になったのもF3時代。 JAFサイトで調べたら、岩城って1980年頃はセントラル20所属でサニーを駆って耐久レースに出てたね。 あの時点では、まだGCが必要だったというのは間違い無いな
前年の89年時点でのF3000の年間エントリーは、23台程度しか無かったんだし >>116
フライデーに出てたな。因みにマッチは当時星野さんに弟子入りして断れたんだよ。光さんも最初は冷ややかに見てた。だが後にインパルワークスF3だから何かあったんだろう。芸能界は裏がヤクザだからあの手この手使ったのかと周囲は感じてたよ。 >>110
最初はそう言った風に仲も悪くなかっただろうけど、二年目の91年も段々とこんな調子が続けば、当然岩城への風当たりも強くなるしな。
恵二さんがカー雑誌か放送とかのメディアで岩城の事を痛烈にディスってたのも、丁度この頃だったかもね。 >>120
マッチと違って岩城は、
国籍が、ね、違うから。 あの時代は芸能レーサーが沢山いたからな。
岡本かおり、三原順子、高島礼子、岩城晃一、マッチ、稲垣純一、つまみえだまめ、他にもたくさんいたはず。 wikiには日本国籍って書いてあるけど
この人って50年生まれだから、団塊の世代だね
そのジュニア世代が、40代前半かな 閉塞感のない良い時代だったんだろうな。
もう二度と日本にはない時代だよ。 一人っ子中心になって、イトコとかハトコとかいう言葉も消えていくね 一番モータースポーツに熱をあげていた頃の時代の人達が亡くなると さみしいなー
ラウダ・ハント・アンドレティなんかの時代に
小島で長谷見昌弘がもう少しでポールだったりした頃から
その後、星野・中島がヨーロッパF2に挑んだり、
長谷見がマカオで活躍したりした時代くらいまでがワクワクして最高だった
松本恵二も他にないキャラクターでカッコよかった
ご冥福をお祈りします。 「遠くにありて想うもの」、だった時代のままで良かったような気もする
日本GPも、78年に中断したまま眠らせておいたほうが。。。 昔、恵二さんからすれば先輩にあたるドライバー氏とたまたま知り合い、雑談していたときのこと
ドライバー氏「ドライバーは急に速くなることがあるんだよね。たとえばあの……京都出身のガイジンっぽい顔してるヤツ。
アイツなんかも若い頃は伸び悩んでいたんだけど、あるときから急に速くなったんだ」
俺「松本恵二さんですか?」
ド氏「そう、恵二」
俺「恵二さん、カッコイイですよね」
ド氏「そうだね。背が高くて顔もいいけど、実は脚が短いんだw いいやつだけどね」 童夢の監督になった時はヤクザっぽいんじゃなくってホンモノだとか2chによく書き込まれてて、今回そのへんの話書き込まれるんかなあとか思ってたけど、ただのデマか
昔F3000のドキュメント番組やってて、今でもやってんのか知らんがレース前健診で看護士に血圧ってどの位になったら出れないのー?とか聞いてたの覚えてるな 父上が大きな右翼団体の会長さんだったのは雑誌のインタビューで自ら公言されてた
そんな頼もしいバックをフル活用してたら日本人初のフルタイムF1ドライバーはこの人だったかもね
引退後は細々と監督業って感じだったから父上の威光に頼らず生きてた人なのかね?もったいなかったね >>137
ホニャララ関係の本を読んだことあるけど、京都って複雑な土地柄なんだよねぇ…。 レーシングドライバーはナイーブでない太い神経でも辛い職業なんだから、ナイーブな人には猛烈地獄な世界とな。
あんなの選ぶなら別に選ぶべき職はいくらでもあると某ドライバーが言ってた。 >>137
京都って色々な人いるねぇ
童夢の林さんも京都人だけど、だからウマが合ったのか 小島氏も京都でしょ
実家は京都の青果市場を仕切っていた資産家とか >>116
逆にいうとその「中団以下」の人に突き回されて
抜かれないためにはブロックせざるを得ない人ってのも何してたんですかw >>144
中団でも競り合いはしてる、というのは理解できてるか???
仮に腕前は互角としても、後ろの奴の方が良いマシンに乗ってるんだから全力で抑えにかかるだろw 殴った側を「お前が悪い」で片付けるのはしゃーないけど
殴られた奴は激遅でブロックどころかレベルの低い走路妨害で当時悪評が高かったと聞いた
ただのブロックならさすかに殴ったりしなかったろ 追い付かれた途端に追い越される、じゃないとレースは出来ない
岩城の一件が起きたコースは、F3クラスの開催も無理だったんだろうよ 最近はどうだか知らないけどあの時代のレーサーは総腹黒だったからなあ
マッチもデビューレースのピットアウトでミラーとウイングチップ飛ばされてたし
…まあ、マッチ自身も接したことあるやつがいま隣の席にいるが、あまり…だそうだが… 亜久里がF2だかに参加し始めた頃、燃料タンクに砂糖たくさん入れられてたのは有名な話。
右京もFルノーで目立ち始めた頃ブレーキがやたら壊れたらしい。 >>147
筑波だよね。90年代に入ってもF3やってたが。 >>145
まあ、F2とかでも例えば中本さんの骨董品級のマウラーと
松田秀士さんや清水先生の型落ちマーチとかが熱いバトルを繰り広げることもあったろうとは…。
しかし今思うとマウラーさんがベロフのために作った81年型だか82年型だかの車が
86年まで日本で走ってたってのも凄い時代だ…。
あれ残ってたらそれはそれで結構なお宝かも。 松本名重は叔父だろ、たしか
meiju racingの名前はそこから アレ、恵二さんの著書によると実家は京都のお茶屋さんだって書いてる
だから芸妓遊びは子供の頃から慣れてるらしかった いっかいの芸能人が予選落ちとはいえ、最高峰カテゴリーのトップレーサーの2秒落ち
で走ってたんだぜ。 速いほうだわ。
マッチと星野さんの関係は、日産から頼まれたら星野さんも嫌とは言えんだろw
松本恵二さんとは京都の宝が池にある当時流行ったプールバーで何度か一緒に突いたわ。 >>156
岩城晃一はタキ井上よりも速かったんじゃね? 1993年に高木虎之介よりもF3のランキングが上だったタキさんをバカにするな。 確か日本でのダラーラ初優勝はマウロ・マルティニだったように思うけど
それ以降中野信治の登場まで国内最速のダラーラ遣いだったはずだからなタキさん。
まあ…スーパーノヴァやダラーラオートモービルジャパン
(輸入業務を担当してたニッパック側のワークスチーム)の助っ人外人達が
どうも生温かったってのもあるけどw >>158
その年の虎ってルーキーだぜ
確かタカチホって既にF3を3、4年やってたんじゃないか?
そのくせ表彰台もなかったんだよね
>国内最速のダラーラ遣いだったはずだからなタキさん。
その頃のダラーラって基本タカチホ1人じゃないかw
ドリキン土屋も鈴鹿のレースでダラーラを使ってた記憶があるな
井上より速かったような >>158
新人の高木虎之介に1ポイント上回っただけの実質最下位じゃねーかw
前年も案の定、タキは最下位w タキはダラーラの実質ワークスチームのナンバーワンだったのに
チームメイトにすら惨敗だからなぁ・・・
しかも生涯通じて一度も表彰台が無いというキャリア。
カネでライセンスを買った恥ずべきドライバー。 HEY GUYS
彼の生涯出走回数はミハエルのアマチュア時代のそれに遠く及ばないと
何かに書かれ鳥ますた。
COMING SOON。 >>160
いや、91〜92年頃は雇われ助っ人外人が何人か居たのよ。
でも例えば91年のダラーラ・オートモービル・ジャパンは
1人目がパッとしなかったのか西仙台辺りで2人目にすげ替わってる。
92年くらいになるとダラーラ自体の戦闘力向上もあって成績が安定してくるけど
それ以前はそれらワークス系助っ人外人すら入賞もままならなかった記憶…。
あとドリキン氏が使い分けてたのはレイナードじゃなかった? >>165
>あとドリキン氏が使い分けてたのはレイナードじゃなかった?
俺の持ってる雑誌だと90年F1の前座F3レースでダラーラを使ってるのはドリキンとタカチホなのよね
ただJAFの記録を見ると違うんだよね
まぁJAFの記録が間違ってると指摘してる人も、たまにいるけど まあちょっと前のJAFのサイトの結果検索だと
凡田孝夫とかいう人が出てきたり
スーダララッタローラ?みたいな車名が出てきたりという有様だったので…。
いや…多分当時の紙リザルトをスキャンして文字認識で起こしてるんだろうけど
アップロードする前に軽く校正ぐらいはしましょうよとw。
ちなみに欧州ヒストリックGr.C選手権レースの主催団体の公式サイトのリザルトは
紙出力して競技長がサインしたそのものをスキャンしたままPDF化した豪快仕様だったw モータースポーツに責任を持っている団体、とは言い難いところだからなぁ
ハヤシに言わせりゃ、虎の尾を踏んだから本田ヒロトシは検挙されたってことらしいが
どう考えても伏魔殿だわな JAFの伏魔殿的な体質が大阪のマフィア勢力みたいと言う事なら、
本田博俊は差し詰め橋下徹みたいな感じもするな。 タキはよくこんな成績で国際F3000に行ったもんだわw >>170
そりゃ年間予算相当額を耳を揃えてチームに持ち込むか
自分でチームごと立ち上げちゃえば、「ライセンスが降りる程度の成績」なら出れるよ。
93年だったか94年、当初GIZAHOUSEから全日本F3だかF3000に出るはずだった
クリスチャン・ペスカトーリという若手イタリア人ドライバーが
急遽国際F3000に出走することになって(結果日本での参戦計画はドタキャン)、
1年落ちレイナード+弱小チームという体制にも関わらずなかなか善戦したんだけど、
この時の2ndドライバー兼チームオーナーは40代のおっさんだった。 >>172
よく上のカテゴリーに行く気になったよなって話だろw
普通なら自重するだろw >>173
多分そこはそう思っちゃうのがいけないんだよ。
「ライセンス降りるし必要なものも用意出来るのに何が悪い?」ってぐらいじゃないと。
タキ井上はF1でも一応一桁完走ぐらいが幾つかあったし、アマティにしてもF1じゃ酷かったけど
F3000ではこれまた一桁順位くらいでの完走は幾つかある。
これで駄目ならそれより酷い結果しか出てない連中は何しに来たって話になるし、
最後の頃のラルトなんか一体何のために車作ってたんだって話にもなる。
それでもミナルディはもちろんのこと、コローニにだって走り続ける理由はあった、
それと同じことよ。 F1だか何だか知らんが、よくあんな出鱈目が罷り通ってると思うよな >>174
それは一定の実力があった場合だろw
まあいい。擁護してくれたほうが盛り上がるわw >>167
まだ生pdf式のレースがほとんどだよ。
一番信頼性が担保されてるから。ま、実際は簡単だからがメインだけど。 松本恵二のル・マン参戦歴
1986年 日産R86V リタイヤ
1987年 日産R87E リタイヤ >>181
トムスの83Cで、WEC富士のストレートでタイヤ爆発クラッシュしたから
嫌いだったりして オムロンポルシェにも、1000kmの時に助っ人で参加した
決勝では走らなかったが あのほら…屋根があると隙間の破れ穴から出られないから…。 星野、萩原と共に日本人初のWECウイナーであることに触れる人は誰もいない…
ま、一度も乗ってないんだけどなw ニッサンでもポルシェでも戦わずして勝ったことがある、ということか >>180
Cカーは若いドライバーに乗せてばかりで
本人さんは全然乗らなかったらしいな。w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています