ルール違反であっても、詭弁とはぐらかしでその場を乗り切り、既成事実としてまかり通れば、それが「権威化」して新たな基準となり、後に続く者が同じルール違反をしても罰せられなくなる。
それを防ぐには、詭弁とはぐらかしの段階で即座に審判が笛を吹く必要があるが、今はピッチ上に審判の姿がない。

一見もっともらしいが、論理的に考えれば成立しない詭弁とはぐらかしを政治家が口にした時、その場で「おかしい」と指摘する記者がいない。
政治家と記者が主従関係になり、気に入らない記者を公然と恫喝する政治家がいても、他の記者はうつむいて黙っている。黙って従うだけの下僕のような態度をとる。

権力を監視するジャーナリズムが、独立した価値判断を捨てて「単なるメディア」に変質すれば、社会の規範や倫理、信頼関係、やっていいことと悪いことの線引きが、ほんの数年で崩壊する。
社会の健全さを担保する役割としてのジャーナリズムの重要性を身にしみて実感する時代を、日本はまた迎えている。