最近、というか、去年の冬からそう思うようになったこと。

第二次世界大戦及び日中戦争と太平洋戦争で死んだ人が史実の10分の一以下で、けがした人が史実の10倍いればよかったとか、
東日本大震災で原発が爆発しないで、死んだ人が実際の数の10分の一で、けが人が10万人いればよかったとか、
阪神大震災か、地下鉄サリンで、死んだ人が実際の10分の一以下で、けがした人が実際の10倍いればよかったとか、
そういうことを思うようになった。
そうすれば、未来を担う優秀な人材や、いろんな人が多数死なないですんで、それでいて、多くの人が人の痛みを理解し、福祉も教育もまともになったのにと。
どっちにしても、これだけは確かなのは「東日本大震災で原発が爆発しないで、死んだ人が実際の数の10分の一で、けが人が10万人もいた。」
これが最悪の事態で、この方が日本が今より以上になったということは、あり得ないし、あるほうがどうかしている。
じゃあ、原発が爆発しないで、10万とか100万人死ねばよかったか?
100人助けるためなら、1人を犠牲にしていいと言ってんじゃない。
100人助ける、その代わり10人ケガするか、100人ケガするがおかしいか?
別に100人助けるために、100人を障碍者にしたり、重傷を負わせなきゃ問題ないだろ。
死んで当然の奴はいなくても、障害者になったり、けがして当然の奴はいるんだし。
「100人助けるために1人犠牲にしていい」というから、有事や災害の際は、少数派はわきに追いやられんだろ。
「100人助けるために1人犠牲にしていい」というから、福祉大国さえワクチンなしの集団免疫とかいう、人民軍戦法の万歳突撃まがいの究極の命の選別をやるんだろ。
「100人助けるために1人犠牲にしていい」というから「原爆はそれで戦争を終わらし、多くの日本人の命を救った」とかいう、訳の分からん核兵器戦争防止平和神話が生まれんだろ。
極論すると「100人助けるために1000人は怪我します、でも、酷いけがもしないし、後遺症も残りません」そういうことの何が問題あるんだ。
多くの自己犠牲ともっと少ない死があってこその、自然であり、幸福だろうが。
「自然は死そのものではあるが、選別と滅びではない。」
これは、人類誕生以前はもちろん、生物が地球に誕生してから、一瞬たりとも揺るがなかったし、壊してはいけない自然の摂理であり真理だ。
それを人類は1945年以降「戦争は死そのもの」でごまかし、自然そのものを破壊しようとしている。