なつかしの名鉄スレパ−ト22
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>>102
平成初期くらいまでかな?
鉄道もバス養成も、九州からかなり採用してたねー。
岩倉、二ツ杁、安城、知立、高横須賀、大里だっけ?寮生もいっぱい居たしね。 >>104
省線並行區間とあるから、金山橋北方の中央本線をオーバークロスするところじゃないか? 104ですが、すっかり名駅北側と思っていたわ。
路面電車線との交差かと。
南側なのかな。よくわからんなw このころは近鉄と繋がってたんだな
直通列車とかあったんかな >>109
近鉄名古屋線はかつて1067ミリだった。正月に豊川稲荷まで初詣臨を運行していた。
伊勢湾台風の被災復旧時に1435ミリに改軌。 本文章、最初のPDFにあるように、笹島町(省線名古屋駅前)から東枇杷島町営業線取付点までを対象とした
概要ですので、掲載されている写真も同区間の工事概況を示しているものと思われます。
写真10の場所、私は東枇杷島から栄生の間かとも思ったのですがわかりません・・・(苦笑) 阿久比さんから・・・近鉄車が豊川に
ttp://www.agui.net/imglog/19/19img-76.html >>112
豊川稲荷ではなくて、豊川まで行ってたんだ >>96
遅レスだが、豊鉄1900が路面電車用クーラーで力業で冷房化したのは妄想じゃないんだが
鉄ピクの記事すら「都市伝説以前の妄想」だというなら話は別だがwww >>96
お前が言ってるのは
「オレの友達の兄貴の知り合いが言ってたんだけどさぁ」というのと変わらん
「言っていた」ということは事実かも知らんが、言った内容の信ぴょう性は全然別だよね >>114
>遅レスだが、豊鉄1900が路面電車用クーラーで力業で冷房化したのは妄想じゃないんだが
そのことはこのスレの住人ならほとんどの人がわかってると思うよ。96氏が無知だわ そういえば、最近特定旅客の話題はほとんど聞かないな。
さすがに名鉄に敵を作りすぎたか。
幹部や経営陣に顔が利く人、誰もいないもんね。
特定旅客が一番暴れ回っていたのは、犬飼氏が現役の頃かな。 >>119
駅助役や社歴長い予備助役の中には、特定扱い上手い人いたな。
社員守りつつ、特定に対しても優しい気さくな対応でね。
特定、機嫌良くニコニコしてたわ。
単純な奴やと思ってた。 >>98
ボーボー燃やした。
屋根が油布仕上げのALは木の部分が多いから壊すより燃やした方が早くね?とゆう感じの
実証実験だったらしいと後で聞いた。3601Fと3550が何両か火葬されていた。
当時大江で下車してホームでしばらく見てたが、酷い臭いと熱風で暑く次の電車で退散した。
近隣も酷い臭いやら煙やら火の粉飛んでさぞ迷惑だったろうに・・・、たしか1987年だったと思う。
>>103
オモロイ資料ありがとう。東西連絡線で繋がる直前の貴重な資料。
>>104
右わきに水路が映っている。奥は東海道線の築堤?
栄生を出発して最初のカーブの何処かでは?
>>118
当時キハ10の2両で犬山や知立からの運用も稀にあったからね。
それにあたると辛いなと思った。 >>104ですが
>>121
右わきのは水路ですか。人が通る通路と思ってましたw
まあ、栄生か東枇から下りて歩けばわかるかもと思います。
>>122
御意。 >>122
当時明智から新可児へ、そこから犬山行になってそのまま犬山まで乗ったが定期運用ではないと思う。
しかし広見線の複線区間は50mの50Nレールが多くて軌道の状態も良かったが、もうイヤってぐらい激揺れだった。
いつもの区間よりもかなり飛ばしてたと思うが、あの時何キロぐらい出してたのだろうか?
>>123
私には開口部の下の方が水面に反射してるようにも見えるのだが・・・画像が悪くて確証はない。
今でもその近辺に小さな川がありガーターが架かっている、しかし小さな水路?は確認できない。暗渠になったのか?
古い地図でも小川はあるが水路?と思われるようなものは確認できず・・・。
このコンクリートの開口部自体がGoogleの空中画像では確認できなかったし、ストリートビューでも確認できなかった。
もしかすると人が立っているあたりの高さが今の地面の高さなのだろうか?だとすると今は地面の下とゆうことになる?
私はその小川に架かるガーターなのではとゆう予想で調べていたのだけれど・・・。(写真左側が栄生方面?)
そして石垣の脇の橋脚?みたいな構造物が今でもその小川に架かるガーターを支えている橋脚に似ている気がする。
いずれも確証はないよ。 御嵩乗り入れや碧南⇔猿投のLEカー運行は知っていたが
犬山行きは知らなかった >>121
燃やしたのまだ最近なのですね
もっと昔の話かと思ったら
確かに狂気の沙汰ですね(笑)
彼処もアポなしで行っても見せてくれたり車内とか案内してもらえたりと、本当におおらかな時代でした 名鉄提供番組ネタで構わん?
ふるさと紀行だけど、昔ってオープニングにパノラマカー出てなかった?
チビの記憶でスマソだが。
後年、CBCラジオの土曜朝にやってた映画紹介コーナーの冒頭でミュージックホーンが流れて
ふと昔のふるさと紀行の開始冒頭を思い出したりした 名古屋鉄道と名鉄百貨店が提供のCBCラジオ「ターミナルサロン」の番組開始時にパノラマカーのミュージックホーンが流れたね。
平日は毎日ラジでミュージックホーンが聞けたと。垢ぬけないといかダサいというか、だがそれがいいみたいなw ×平日は毎日ラジ
○平日は毎日ラジオで
名鉄のCMは「内海夏子の冒険」と、疾走するパノラマカーの空撮が映るCMが好きだったったなぁ ゴリ夢中2007年1回目やってたが
今は亡き5300.5700が出てた。 ようつべで廃線になった路線の展望ビデオみると、
線路は短尺、4種踏切何てのが普通で、いかに名鉄が不採算線維持大変だったかわかる。 1964年の運賃
豊橋から
国府 35円
東岡崎 100円
知立 140円
神宮前 190円
新名古屋 210円
新一宮 250円
笠松 275円
新岐阜 280円
-------------------
新岐阜から
笠松 25円
新一宮 40円
新名古屋 90円
神宮前 110円
知立 170円
東岡崎 210円
国府 265円
豊橋 280円
(×[いくつ]くらいすると今の価値ですか) ↑単純に他のものと比較すると×8〜10くらいなのですが
物価自体が安かったのでそこを考慮するとどれくらいなのか? >>133 東京・新大阪間、超特急ひかりで一等車で行くと5030円、都バスの運賃が20円、
中華そば(外食)59円、公務員の初任給(大卒)19100円といったところ。
中華そば2杯分の値段で新岐阜から神宮前まで行けるということになるか。 6000系1次車のデビュー当初は7000系と同じ黄色と言うか山吹色のカーテンだったが
この色は7000系デビュー当時から同じだったの? 俺の手元にある保育社カラーブックス「日本の鉄道」
P95のモ7009の展望室内の写真を見ると
茶色というか濃いベージュっぽい色のカーテンが付いている
ちなみに座席のモケットは登場時のピ−ターパンブルーのようだ 俺が知る限り、最初の頃7000系は若草色のペラペラのカーテンだった記憶・・・シートモケットは濃いグリーンでビニールの枕カバー
シートモケットが臙脂で布製枕カバーのやつは、表側青、車内側白でオレンジの横ストライプの少し厚手のものになってた
車体更新後か何かのタイミング? 1961年の7000系カタログのカラー写真ではシートはモスグリーン系で、これは確か1980年代中頃まで残ってたのがあった。
シートカバーは白又は白に近い灰色、カーテンはターメリック系?の黄色っぽい茶色か山吹色のような色。
昔のプロモーション写真なのでスポット修正入ってるかもしれないが・・・。 ↑訂正
カーテンの色がモスグリーンに近い茶色がかった山吹色のような色。
シートモケットが濃いグリーン。(クーピーペンの青緑みたいな色)
でした。 パノラマカーの赤いモケットは、座席指定特急の設定と同時だったようなことをどこかで見た。
その後、白帯車が背もたれを高くして茶とオレンジのモケットになった。 なんにせよ7000登場時と6000の登場時のカーテンの色は
全く別物というのは間違いない ついでに8000系はどんなカーテンだったんだろうか? >>143
80年代初期に高山まで乗ったけど、紅いモケットに>>138の青白カーテンだった
要は7000系と同じ なつかしの名鉄部品即売会
明治村で名鉄部品即売会が開催された年が何度かあったと思うけど、明治村で名鉄部品即売会が開催されたのって平成何年頃でした? >>145
2010年頃じゃなかった?
今のスタイルになってから。
昔は今津島で年末やってるようなスーパー高額とかはあり得ず、逆富士で1万。これ平成一桁の話。 俺は犬山のしか行ったことないなぁ
3902Fの部品まだ家で使ってるは S60年に猿投でやってた行先板の即売会は行ったよ。
その頃から整理券方式だったけど、のんびりした雰囲気で。
イラスト板の、みはま等を売ってた。
P車の世界のパトカー展を2000円で買った。 >>146
遅くなったけど教えてくれてありがとう。2010年=平成22年かぁ。最近といえば最近だね。10年前だけど
>>149
>P車の世界のパトカー展を2000円で買った。
まさにそれが聞きたかった。P車の系統板が1000円だった時代があったみたいだけどいつ頃かな?って。
自分は明治村が名鉄部品即売会デビューなんだけど明治村の頃は既に子供には買えない程高かった。
P車の系統板が1000円だったのは明治村より更に20年も前、昭和の終わり頃の話なんだね 名鉄の即売会、一時期は勝手に名簿作って名簿に名前記入して朝晩集まって点呼やってたらしい。その頃の人達はそこまで手間かけて何を買ったんだろ? イラスト板? 特急いなり号は国府から高速になります
一般のお客様もご乗車になりますのでご了承下さい 特急で豊川稲荷へなんて今では考えられんな
あちこち特急があったなんていい時代だった 初詣特急大増発!はいいけど、2月の旧正月までの間は
大量のP車が特急に借り出されて、本線高速や急行には6000が
支線急行にはAL車が大増殖という魔のダイヤのイメージしかないw
初詣ダイヤのキャッチコピーの「新春快走」をもじって「新春迷走」
などとこき下ろされていたなw >>155
いなり号は豊川線内だけ特急で本線内は高速だったの??? 新岐阜-新一宮-国府宮-新名古屋-金山橋-神宮前-<無停車>-国府-豊川稲荷
豊川稲荷-<無停車>-東岡崎-神宮前-金山橋-新名古屋-国府宮-新一宮-新岐阜
普段には無いノンストップ区間が特徴的だった。 ほかにはパノラマDXが有ったときは国府も通過していた 帰りの先頭座席取った!⇒7700系だったときの絶望感。 うちの祖母が1月に老人会で貸切った団体列車で三河山線から豊川稲荷へ行ってたけど、知立連絡線を使ったと言ってた。
知立連絡線廃止後は豊明でスイッチバックしたため、すごい時間がかかったととのこと。 >>158
その逆、豊川稲荷ゆきが国府から高速になって、
いなり号の前を走る急行豊橋ゆきで国府まで来た人たちを拾えるようになってた。
あと、正月ダイヤで面白かったのが、知立特別通過特急の知立臨時停車。
結局、基本停車駅と変わらないのだが、どうやって案内していたのか気になる。 ・本線東部から高速消滅
・豊川(美合)急行と河和急行の入れ換え
>>157
あんなに特急だして、よく車両たりてたなw
そろそろ海水浴特急の時刻表もらってこないとw まもなくDX特急豊川稲荷ゆきが参ります
この電車は乗車券のほかでラックス特急券が必要です >>166
特急車両を使わない場合は
座席確保券(座席指定券とは異なるものだが性質は同じようなもの)を発行してました ところが座席確保券を取ったとき、乗った車両は7000系だったので
違いをもうけている必要性がよくわからなかった。 いなり号、特急が途中から高速を名乗るとか、たまげたなぁ 明治村号の犬山から普通なんてのもあったな
直通特急サービスと支線区の一般列車本数確保の両立 600V時代の各務原線ではM車はどちら側についていましたか? >>166
当時は白帯なしでも特急運用についていて、7500系や白帯なしの7700系4両も特急運用についた。
>>169
1000系が登場すると格差が問題になり特急運用は白帯車に限定されたため
白帯なし7000系や7500系は新春ライナーという種別で200円の座席確保券でしのいだ。 >>167
8800系が正月輸送で運用に入っていたことは知っているが
8800系+7000系白帯車という組み合わせを何度も見たけど
8800系単独や3両編成時代になってからは見たことがない。 166ですが
>>169
>>176
新春ライナー覚えていますよ。
更新済み第一号の7501Fが入ったとか記事になっていたような。
そもそも臨時特急を出すために、相当検査を偏らせていたのかと。
絶対数が増えるわけだから、普段は留置線少ない名鉄なのでどこに留置していたとかね。
鵜沼の駅の横に留置とかもしていたようですがw >>174
ネット上の写真を見る限りM車は岐阜方でした。 >>79
瀬戸線に行くときに反対向きになって
さらに揖斐線に移ったら岐阜側からM-Tの向きになっていた 一宮線の無くなった原因は、国道との交差というのは本当なのですか。 >>182
鉄ピクのバックナンバー(1996年頃発行)の名鉄特集に載っていた。
名岐バイパス(現在の国道22号)の建設が決定打となった。 一応R22が出来た当初は踏切で交差してたみたいだけど流石にいつまでもそのままって訳には行かないな。 自分は7025Fと同じ歳だけど、岩倉車庫あうっすらと記憶ある。
本当にうっすらだけど。 >>186
600V車の鮮やかな緑と1500V車のくすんだ緑は違うんだよ 一宮線は省線尾張一宮や名岐新一宮と接続していなかったのも廃止を促す要因だったと思う。
ターミナルの東一宮は、眞清田神社の門前町に隣接して、市街地中心部の非常に立地の良い場所だけど。 東岡崎みたいに東一宮を名鉄のターミナルにすれば良かったけど元々尾西線を別会社が最初に尾張一宮に乗り入れたって経緯もあったからなぁ。 地図を見た考えなんだが、初代名古屋鉄道の岐阜延伸は犬山線江南で分岐という考えだったと思う。
犬山線敷設時に、江南の大カーブまで北上して犬山方向に向かう意味がない。今の江南に歴史的市街地はない。
江南で犬山方向に曲がる線路を線対称で東西逆転してやると、木曽川を渡って岐阜市街地に向かう。
しかも間に川島町があって渡り易そう。
江南は枇杷島分岐点のようになる筈だったのではないだろうか。
尾西鉄道との合併は、その時になるまでお互いに全く考えていなかった節がある。
そもそも尾西鉄道が独自に名古屋に向かおうとして一宮から名古屋中村方向に延ばそうとして、国府宮辺りまで造ってしまった。
そこで合併して、泥縄式に国府宮と丸の内の間を作った。
美濃電と合併して笠松に出ることも、その時になるまで全く考えてなかったんじゃないだろうか。
初代名古屋鉄道は尾西とも美濃電とも合併しないままで岐阜を目指していた。
その路線図での一宮のターミナルが、東一宮駅だった。 これはあくまでも妄想かも知らんが
石仏から栢森、犬山へ真っ直ぐな道がある
実際車で走ったことあるんだが異常に真っ直ぐなんだよ
これってここに鉄道を敷くための用地だったんじゃないかと >>193
>しかも間に川島町があって渡り易そう。
あのあたりの木曽川が現在の流路に確定したのは昭和に入ってから
瀬戸大橋のように島々を橋脚の土台にするつもりで妄想したのかな 爺さんの遺品に、昔の犬山橋の写真があった。
陸軍の輜重隊の演習か何かで、馬車が荷車を引く横を兵隊が歩いて、犬山から各務原方面に行軍してる様子だった。
昔の犬山橋には、「橋山犬」と書いた扁額みたいなのが掲げられていたんだな。 昔の犬山橋付近は、全国の工兵が代わる代わる来て架橋訓練のために遠征する場所だった
輜重兵ではなく工兵ではないか?と思料する >>199
輜重兵と騎兵が水馬演習やってる絵葉書ならググると出てくるぞ >>196
> 瀬戸大橋のように島々を橋脚の土台にするつもりで妄想したのかな
庄内川の初代鉄橋は中州を「土台」にしてたからなw 大学生時代毎日尾西線で通学してて上京
今年10数年ぶりに戻ってきてたまに尾西線乗る様になったけど6800系のワンマンしか来なくなってつまらなくなったな
大学生時代に乗ってた頃はSRとか1800系とか3500系とか色々入線してたけど…
一宮経由で本線入る列車も消滅してるし森上行きも無くなってるし浦島太郎気分 赤土坂が右側通行に変わったのはどうしてでしたか。
衛星放送で昔の映像が出て、赤土坂の左側に入線していくのを見た。 6000系など3扉車両は一時期扉を白く塗ってありましたが
旧式車両の3扉のは白く塗っていましたか?? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています