特急まつかぜといそかぜを語ろう
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
新大阪・大阪〜米子・博多間を走ってたまつかぜと米子〜博多間
(末期は益田〜小倉間)を走ってたいそかぜについて語りましょう >>97
末期は銀河の方が少し早く大阪に到着しててた様に思います。
まつかぜ1号は、大阪駅に7:30(末期は7:40)に入線して来たので、車内に荷物を置いた後に、水了軒の駅弁や途中で食べる
食べ物などを買いに行っても全然時間の余裕がありました。
今から思えば、もっと食堂車に行けば良かった・・・ こんな書き込みしたら怒られるかも…
大阪発着【まつかぜ】が現役の頃
カメラを持って大阪駅構内を走り回ってましたが
【11番線381系しなの】が撮影の終わりでした。
今、思うと【はまかぜ】は播但線経由だから?人気は無かったような気がする。
当初は『まつかぜ』は京都〜博多、『やくも』は新大阪〜浜田。グリーン車が2両だったのは、『やくも』の方が先。 >>101
はまかぜは運転区間も編成内容もぱっとしない存在でしたからね。 昔の「はまかぜ」は何のための播但線経由か???だったな。
姫路〜和田山全通過だったからなぁ。 >>104
初期は姫路で新幹線に接続も、していなかったみたいね。
もそもそ先生が苦言を呈してた記事を読んだことがある。 はまかぜは豊岡などから県都神戸へ行く需要のためだろう。 ええっ(οдО;)
やくもってグリーン2両だったの? 当時はまだ新婚旅行のメッカは国内で、縁結びの神様である出雲大社へ行く新婚さんが多かったからだと聞いています。宮崎行きのオールA寝台車の「ことぶき」なんてのもありましたね。 まつかぜが13連で運行していたとき後ろから2両目のグリーン車に乗った
S字にカーブしているところでは先頭車両が見えなかったのを覚えている
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
82年夏、電化幹線撮影に食傷気味になり、C57C58重連撮影後、益田に抜け、美保三隅を目指した。快晴の夏晴れながら
日本海はどこまでも澄んで美しく、海バックの定番ポイントを走りぬける80系
まつかぜは6連ながらまさに山陰のクイーンだった…。
ああ・・・あのころに戻ってシャッターを押してみたい・・・。 大阪駅1番線の博多行きの文字。
非電化単線つまり旧線時代の武田尾駅をゆっくりと通過して行った姿。
でも結局乗らないまま消えた。 キハ181系化された「まつかぜ3・2」号と、キハ80系で残った「まつかぜ1・4」号
最初のうちはキハ181に「まつかぜ」のヘッドマークは、なんとなくそぐわないようにも思えた。
まつかぜは大阪→宝塚→福知山の停車駅でこそ!特急!と思っていたが、
末期は三田や篠山口、柏原に停車して残念に思えた。
また、臨時のまつかぜがあったような気がするのと、波動用として三田駅
の上りホーム裏の側線に181か82か忘れたけど、車両が留置されていたよう
に思う 特急あさしお、はまかぜ、まつかぜ3・2号がキハ181系化された時、
運用離脱したキハ80系が、向日町運転所、加古川、篠山口などの駅構内の
側線などに分散留置されていた。 まつかぜ4号の食堂車で
今は亡きばあちゃんと食べたカツカレーの味が
今でも忘れられません 夏休みの朝、『博多行き』を中山寺駅までチャリで見に行ったのを思い出したぜ。もう32年も前だな。 82系(キシ80)の食堂車の雰囲気は、電車特急のそれにはない風格があった… 確か昭和53年10月以降、北海道以外でキシ80を連結してたのはまつかぜだけだったな。 >>119
篠山口には停まってもよいと思っていたが >>126
その前もキシ80が営業してたのは「くろしお」と「にちりん」だけか? >>128
くろしおはキハ81とキロ80を2両つないで営業してたな。
にちりん80系は昭和48年頃にキシ80はなくなっていた。
昭和50年3月まではかもめ・あさしお・はまかぜにキシ80があったけどな。 79年の時刻表をみているがまつかぜで大阪⇔博多が指定席で9100円だな。この金額で今乗れるなら喜んで乗る >>130
当時なら山口・秋芳洞ミニ周遊券利用が有用だな。自由周遊区間までの経路に福知山・山陰線が使えた
から下関―博多を別途に買えば全区間乗車ができる。
片道は山陽夜行か、山陰夜行のさんべか鈍行山陰号を利用すればトータルコストで良かった。
俺は83年にそのミニ周遊券を使い、まつかぜ4号を全区間乗り通した。
ただ79年頃から首都圏発着はそのミニ周遊券が消え、代わりに特急おきに乗れるフリーきっぷに替わった。 「まつかぜ1・4号」の食堂車の人気メニューだった「大山おこわ定食」
これは、米子から材料が積み込まれて販売されていたようで、大阪を出発した
ばかりの「まつかぜ1号」の食堂車では、まだ販売されていなかったようだ。
大山おこわ定食w
鉄道ジャーナルの列車追跡か何かで載ってたような。
今夜が、炊き込み御飯だったのは偶然かな。 >>132-133
出雲・やくもにもあった。列車追跡は出雲からでなかったか? まつかぜのフル編成が餘部鉄橋をわたる写真を
みたことがある。
かっこよかったなあ 1県1停車駅の原則があり、上下で豊岡と城崎に分散停車させてた(上下ともいずれかは通過)って本当?
昭和50年代の時刻表を見ても、豊岡も城崎も上下とも停車になってるんだけど。 昭和40年代には、すでに両駅停車になってましたが、運転開始時にはどちらか一方が通過だった筈。 >>137
レスサンクス。
ということは、おそらく昭和36年の運行開始時の話ですね。 まつかぜ1号を抜かさすために川西池田で20分くらい停車していた鈍行によく乗った。通勤時間帯になんちゅーおおらかな時代だったのか >>139
その時代は大都市近郊でも非電化で通勤機能をなさない路線がたくさんあったな。
京都口の山陰本線・奈良線・名古屋口の関西本線もそう。
その当時の鈍行のおおらかさからは、4年前の福知山線事故なんて想像もつかなかっただろう。 >>140
昔は通勤通学は私鉄が当たり前だったね。今は宝塚〜大阪はJRが勝ってるんちゃう? >>141
さすがに宝塚〜梅田は阪急志向でないか?伊丹ならJR志向と思うが、どちらも
東西線直通を生かした利用客がどの程度いるかだな。 JRで伊丹〜大阪は約15分。阪急では塚口乗り換えで約20分。伊丹市バスはJR伊丹まで乗り入れてるからJRの勝ちやね 清荒神や中山寺行く時に阪急宝塚線乗ったけど、急行と言いながら豊中からずっと各駅停車で、川西能勢口からはもうガラガラ。
宝塚は今津線から西宮北口乗り換え客が目立ってた。
限られたパイを分け合ってる印象だ。
福知山線と言えば、まつかぜや旧客の残影があるのだが、今は阪急のあずき色や木目の内装、窓の鎧戸ブラインドの方が、並行するJRよりクラシックな感じがする。 >>136-137
福知山線〜山陰本線特急が「まつかぜ」「やくも」だった頃は・・・
「まつかぜ」は豊岡停車、「やくも」は城崎停車でした。
詳しくは分からんのですが、新幹線岡山開業直前は両列車とも豊岡・城崎ともに停車していました。 宝塚・豊岡・城崎ってホームからはみ出さずに13連止まれた?
福知山は止まれた記憶があるが かつて、福岡に住んでいた時、博多から小倉まで新幹線、小倉から浜田まで
いそかぜ、というふうに乗っていた。すみません、こんな乗り方が、いそかぜの
引退を早めたんですね。 >>148
いや、あると思います、そんな乗り方。
引退はあなたのせいで早まったりしたことはないですよ、たぶん。 >>150
せめてG車が残ってるうちにやってもらいたいですねぇ。もちろん原色に戻して。
前回のリバイバルは6連でうち4両が先頭車って、なんか情けない編成だったから。 一番記憶に残っているシーン。
掃除のおばちゃんが、溜まった灰皿の中身を捨てて回っていたこと。
二番目、大阪博多乗りとおしで、朝昼食堂車でめし食い、昼下がりに「これで
食堂車の営業を終了しま〜す」というアナウンスにがっくり。
実は夕方、別のチームが営業し、前出の大山おこわ定食にありつくことに、
味の記憶はないが、活気溢れる食堂車であった。
六両だったか七両だったか、米子からの短編成でも食堂車があった。
今では信じられない光景だ。 >>151
廃車予定の「はまかぜ」キハ181系列を使えば、
グリーン車も再現出来ますね!!
西が、国鉄色に戻すかどうか・・?? まつかぜの食堂は、いつ行っても、数名の客が居て、ビールでも飲みながらゆっくりくつろいでいた様な印象が
あります。
当時は、まだビールを飲める年齢ではありませんでしたので、そのうちゆっくりと思っていたら、食堂車が無く
なってしまいました・・・・ こないだ東萩に行ってきたけど、
恐ろしく田舎な駅で驚いた....
駅周辺は寂れちゃってるねえ
このあたりの山陰本線は本数もほとんどないし、
くるのは単行各駅停車ばっかりで
単なるローカル線だった... 山陰でも萩あたりになると、瀬戸内側までの距離もさほどじゃないからねえ……
下関も山口市も山越え道路で比較的短時間…… 京都行、米子行、益田行と徐々に短縮されていって、
ついには廃止されちゃった列車系統だったね
しかも晩年は小倉発着…
寂しくも懐かしい 門司を悠々と通過していく様がたまらんかった。
今はないもんな。 島根県の大田に親戚がいたので子供の頃、大阪からよく乗りました。朝8時にでて石見大田に着くのは午後3時前。時間帯の便利さから行きはまつかぜ、帰りはやくもというパターンが多かった。
当時、親が話ではまつかぜの指定が取りにくくて、一度三瓶で行ったこともあります。上下のまつかぜが交換するのが出雲市で、下りのまつかぜと上りの急行出雲がすれ違うのが、確か石見大田だったと記憶しています。
まつかぜが誕生当時は下りが城崎、上りが豊岡停車だったのが、やくもが出来たときに、まつかぜが豊岡で、やくもが城崎に変わったんだと思う。白鳥も同様に上下で動橋と大聖寺を分けていて、雷鳥としらさぎ誕生時に動橋のみ停車になったはず・・・。 あのころの山陰線の特急
あさしお・はまかぜ・まつかぜ・やくも・おき
「やくも」は新幹線連絡エル特急として後には電車にもなってその地位を不動のものにした。
いつ廃止されてもおかしくないようでしたたかに残っているのは「はまかぜ」だな。
京都・大阪・福知山・城崎・鳥取・上井・米子・松江・出雲市・石見大田・浜田・益田・東萩・長門市・下関・小倉・博多 博多「まつかぜ1・4」号はキハ181系の車両数の関係などから、キハ80系のまま
残ったが、60.3改正で米子発着に改められたときにキハ181化された。
どうやって「まつかぜ1・4号」用のキハ181系を確保したのだろう。
米子運転所担当の特急「おき」の編成を減車したりグリーン車を廃止、そこで捻出された米子運転所の
キハ181系の一部を向日町運転所に転属させて「まつかぜ1・4号」の1〜4号車を「おき5・2号」と
共通運用させることで「まつかぜ」2往復のキハ181系化が完了したのだろうか。 >>164
60-3改正まで、「おき」は小郡配置の181系で運用されていたのを、この改正で米子または
向日町に転属させ、一部列車の短縮やそれに伴う運用数の整理、編成短縮を行い、80系の
置き換えを実施した筈。
小郡では、確かキハ180に余剰廃車も出たと思います。
「まつかぜ」の食堂車の営業は、日本食堂米子営業所か大阪営業所が
担当してたようだったけど、都ホテル列車食堂も「まつかぜ」の食堂車営業を
行ってなかったかな。
>165
昔は石見江津は通過でした。
やくもは、最初から停車していたと記憶しています。 福知山線の踏み切りで、だいせんやまつかぜに昔よくしょんべんかけられたな。 >>161
私のとこも大田・川本に親戚がおりますので、子供の頃何回か行きました。でもうちは貧乏だったので「さんべ」か「だいせん」でした。(笑&涙)
一度京都の金持ちの親戚と一緒に行くことになり、見栄をはって「まつかぜ」に乗りました。でも汽車賃浮かすため、当時小学校一年だった私を幼稚園児にしたてただ乗りしました(笑&涙)そのとき食堂車利用しましたのを昨日のように覚えております。
また金沢にも親戚おりましたので、何度か行きましたが、貧乏でしたので「白鳥」ではなく「ゆのくに」でした。(号泣)
現在発売中の習慣朝日(4・16号)で自民党の石破茂氏が「はまかぜ」「まつかぜ」を熱く語っている。軍事オタクで有名だが列車オタクとしても知られ、なかなか造詣が深いらしい。
鳥取出身で、子供の頃乗った80系「まつかぜ」や、消え行く181系に思いを馳せ、古きよき時代をなつかしんでいる。 民主党の前原氏と自民党の石破氏、プライベートでは何か鉄道趣味の話でもする事は
あるのだろうか?
ともに、山陰本線に関係ある場所の選挙区ですね。 前原は撮り鉄、石破は乗り鉄って感じがする
個人的には石破の鉄話の方が好き >170
子供の頃、一人でまつかぜに乗ったとき、隣の席にたまたま座った人に、食堂車でビーフシチューのセットをご馳走になりました。 >>172
以前鳥取のFM局?がやった番組で石破氏と前原氏の対談が実現、
話の内容がひたすら鉄話に終始したそうだw まつかぜや出雲などの話をし始めると、食事も忘れて延々と続きそうなお2人ですね。 島根のおじさんは、まつかぜを大阪便、出雲(急行)を東京便と呼んでいました。 福知山の会社に勤めていた親類の話じゃ、来客用の切符手配は、
東京方面→出雲、大阪方面→まつかぜ、京都方面→白兎が定番だったそうな。
時間帯的に?な面も有るけど、列車の格みたいなものも考えんといけなかったんだろうか? >>179
昭和50年代頃までは該当列車が一番使い勝手の良いダイヤだったはず。
京都〜鳥取だと「あさしお」もあったけど、下り午前と上り午後は使いにくかった希ガス まつかぜは使いやすいダイヤでしたね。鳥取到着も丁度良い時間帯で、出迎えに来た人と一緒に
昼食を取ってから、目的地に移動するのがいつものパターンでした。
一方、夜の大阪→鳥取間の移動は、もっぱらはまかぜ2号(のち3号)を利用してました。大阪駅を
18:00丁度に発車するので、仕事を終えてそのまま乗車する事もありました。 ガキの頃の遠い記憶。
萩−東萩間が豪雨の影響だったか何かで不通となった。
下関方面から上ってきた「まつかぜ」は萩駅で足止め。
その日婆ちゃんに連れられたオイラは、所要で萩駅から長門市駅まで向かうところだった。
乗車予定の下り鈍行は同じく東萩で足止め。
暫く萩駅で待っていると、足止めされた「まつかぜ」は折り返し鈍行に成り下がって運行することになった。
オイラはまんまと特急車両で優雅な各駅の旅となった。
ちなみに「まつかぜ」乗客は、チャーターバスで東萩に移動し、
本来オイラが乗車予定の鈍行が益田方面へ折り返すとのことで、それに乗ったらしい。
そんな想い出が蘇った。 >>98
遠投
オレが覚えてるのは「つるぎ」との並び。
確か「つるぎ」が7:20頃大阪着やったはずやから、えらい早うから大阪駅に来てるもんやねんなぁ、と驚いた覚えが。 俺も「まつかぜ」京都(大阪)−博多 乗ってみたかったなあ。海を見なが
ら食堂車で食事したかった。今考えると贅沢だよね。
数年前に、その半分くらいかもしれんが、倉吉ー新山口 の「Sおき」で
多少の鬱憤晴らしをした。海側の席取ってね(山陰は海側が日も当たらなく
て良いよね) >>186
その全区間乗りました。上り4号だったので山陰海岸がきれいな区間で食堂車で食事をしたけどガラガラ。
道中長かったので松江あたりからかったるくなり、倉吉あたりから外は真っ暗に。
鳥取から巡回してた車販のおねえさんがかわいかったw >>186
俺も4号の13連の後から2両目グリーン車に全区間乗った
鳥取出てからの〜←こんな感じのカーブでは7号車辺りが見えて1号車が見えなかった
さすが13連(俺の乗った車両から見ると12連)と感動した >>187
>>188
186です。レスありがとう。
188氏のようにグリーンで乗りとおすのは憧れだったけれど、当時は
そういう身分でもなかったしね。
13連か。素晴らしい。俺の乗った「Sおき」は増結してても4連だったもの。
景色のよいところを走る長距離特急はいいよね。白鳥も魅力だったけ
れど、山陰のクイーンには及ばなかった。
>>190
昔は乗客もたくさんいましたしね。
スレ違いなんですが、貨物・普通・急行を押しのけて走ってました
米子発のあさしおは当時9か10両でしたが、鳥取をでるとカーブが
ありまして、その長さを感じましたね。
>>190-191
昔のまつかぜ1・4号は鳥取折り返しの8〜13号車も含めて全車指定席だったけど
下りの1号は大阪発はいつも満席
たまに「まつかぜ1号」の指定が取れなくて立席特急券で鳥取に出張に行っていた
親父の受け売りだが
一度だけ親父が鳥取出張に俺を連れて行ってくれたのが良い思い出
確か11号車だったと思うが、食堂車の3号車まで行くのが子供心に長かった覚えが
あるよ 昭和47年の8月に鳥取から京都まで特急あさしおに乗った。
がらがらだったな。 >>191
特急で基本2連、昔では考えられなかったですね。
>>192
確かに1号は良い時間です。それにしてもいつも混んでいるとは。
そのニーズが他の手段に移ったのでしょう。
良い思い出ですね。確かに11号車から3号車は長いわ。
長い先にはお楽しみ(食堂車)があったのですね。 鳥取が田舎のうちの親父の場合、昭和50年ごろまではもっぱら「まつかぜ」などの特急利用で、
それ以降は、圧倒的に山陰特急バスの利用でした。何せ、安くて早かったですから・・・
ただ、昭和51年夏だったか、まつかぜ1号の指定席が取れず、急行「みささ」で鳥取まで行った事
がありました。「みささ」も混んでいましたが、今では夢の様な話です・・・ >>195
まあその頃までは国鉄運賃も安かったからね。その後無謀な運賃・料金50%値上げから
毎年のように値上げした上に、高速道路の延伸で競争力が落ちて利用者減少していった。
だから博多直通のまつかぜも昭和55年あたりからはそれほど混雑しなくなったのでは?
件の昭和51年頃は東京〜浜田の元祖出雲も、寝台券が連日満席でなかなか入手できなかったと聞く。
80年代初頭の子ども向け特急列車図鑑みたいな本だと、
博多まつかぜを通しで乗る人は滅多にいない という様な記述をよく見た。
富士の西鹿児島行きとかも同様に。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています