タクシー運転手の山田さん(仮名)。これは彼が体験した実話である。
「昨年の夏、たしか深夜二時頃でした。あるお客さんを降ろしたあと、
女性を拾ったんですよ、いやー危なかった。
それがね、暗がりで道の真ん中で白いドレスを着て、ふらふらっと突っ立ってるもんだから
もうちょっとでひいてしまうところだったんです……」
「どこまでですか?」
「……」
「今日も暑いですねぇ」
「……」
返事がない……。
何度か話しかけるが、後部座席に乗った女性は無言のままだった。
「お客さん、どこへ行けばいいか言ってもらわないと困るんですけど」
すると、影の薄い女性客がか細い声で一言。
「いってください」
「へ?どこへ」
「いってください」
「へ?」
こんなやり取りをしているうちにタクシー運転手の山田(仮名)さんは困り切った表情で
後部座席を振り返ってみた。
すると……その女性客は、
雨も降っていないのに何やらびっしょりと濡れたような長い黒髪が顔に覆いかぶさって、
その黒髪のすき間から血の気の引いた真っ白な顔をうつむきかげんに何かを訴えようとしている。
「お客さん、あんたね、今日手首切りなさったでしょ?」
「……」
「ホラ、その手首。言わなくてもわかってますよ。
こういう商売してるとね。たまにいるんでね。あんたのような客が……。
さあ降りとくれ。こっちは忙しいんだ。たくさんの客が今夜も待ってるんでね」
そう云って山田さん(仮名)は車から降りて後部座席から女性客を強引に降ろしたという。
降ろされた女性が
「わたしは……まだ死んでなんかいません……死にきれなかったんです」
すると運転席に乗り込んだ山田さん(仮名)は
「だから駄目なんですよ、この車はあの世へ運ぶタクシーなんでね」
そう云うと女性の前でタクシーごと、スッと消えた。(了)